「秋の夜には古典がにあう」─帯にそう謳われたこの本が突如読みたくなって、8月の最終日には一人でさっさと“秋”を始めてしまった。
秋の夜には古典がにあうとはどういう意味だろう。この本に答えが書いてあるわけでもない。
風に秋の気配を明らかに感じるようになって、自分なりの答えが見えてきた気がする。
古典と言われるものは、文学にしても芸能にしても、自然ととても相性がいい。源氏物語を例にとれば、自然を和歌に詠む情景描写は心理描写だし、能の舞台はもともとは屋外にあった。橋本治も別のエッセイで、室内で見ていた能はどうしても眠くなってしまったが、あるとき屋外で見たことで能の見方が変わったということを書いていた。それを読んでから、音楽とそれを聴くときの環境に目を向けるようになった。
窓を開ける気にもならなかった夏が過ぎて、外の風を感じたくなる秋。虫の音が聞こえたり、月を見上げると、百年前や千年前と同じ光景を見ているのかもしれないと思う。秋の夜は長く、古典が超えてきた年月に想いを馳せるのにはちょうどいい。そう思うと、やはり「秋の夜には古典がにあう」。月を見ながら和歌を詠んだ千年前の人の悩みは、おそらく私には想像もできないほど現代とは違っていて、でももしかしたら今とまったく同じに見える悩みもまたあったのだろう。速めることも遅くすることもできない“今”という時間を生きていることは、どれだけ時間が経っても変わらない。古典に触れることはそういう共感を自分の中に育てることでもあると、私は橋本治に教わった。
さて、この本は“橋本治四季四部作”といわれるうちの、秋である。これから季節ごとに一年かけて読んでいく計画だ。
橋本治がさまざまな媒体に寄稿した文章を集め、テーマごとに編集しなおしたのがこの四部作。
『秋夜』のテーマは、これまで書いてきたように、古典。古典といっても扱う範囲は幅広く、源氏物語や歌舞伎、薩摩琵琶、講談、バレエ、文学は川端康成や芥川龍之介など。
だがなんといっても白眉は、六世中村歌右衛門について書かれた「花の盛りを舞い狂う」だ。
この一章を読んで私が驚いたことは、橋本治がどれほど“見て”いたかである。
橋本治が歌右衛門の歌舞伎に感動していたことは十分すぎるほど伝わる。それ以上に、橋本治の“見る”ことのすごさに圧倒された。歌右衛門がどういう動きをしていたか、そのとき着物がどうであったか、表情は─など、とにかく細かく見ていたことがわかる。ある時期集中的に歌舞伎座に通い、多いときは「一月の興行の昼夜を毎日通うということさえも」していたという。そんなに通っていたら覚えるのは当然と言う人もいるだろうし、通うことで見る解像度が高まることも当然あるだろうが、「それにしても」と言いたくなるくらいの細かさで描写される。おそらく橋本治は、脳内で完璧に舞台を再現できるほどになっている。そうじゃないと説明できない描写がこの一篇には詰められている。そこまで徹底して“見る”ができる人はあまりいないのではないかと私は思っている。歌右衛門の歌舞伎が好きだという純粋な感動と、絵を描けるようになって、プロとして描いていた経験、そしてたぶん使命感とが合わさって、気迫すら感じる“見る”行為に繋がるのだろう。そうやって書かれた“橋本治が見たもの”の描写は、無機質に近い単なる説明のようでいて、しかしとんでもなく美しい。次に例として一文を挙げるが、実際はこれだけには留まらない。
そして実は、橋本治の“見る”ことのすごさを念頭に置いて読むと興味深い一説が、三島由紀夫について書かれた「幸福な鴉」にある。
私は三島由紀夫を読んだことがないので橋本治の文章との比較はできない。だから装飾ということについて橋本治と三島由紀夫がどの程度違うのかもわからないが、引用の特に前半部分は橋本治自身のことのようにも思える。