古典を読む意味とは?─『古典を読んでみましょう』橋本治
ひとくちに古典と言っても、日本には「いろいろな古典」があります。時代によって文体も変わる。だから『これで古典がよくわかる』では文体史をやったと書いてありました(『失われた近代を求めて』参照)。
この『古典を読んでみましょう』は、『これで古典がよくわかる』とは違って、もう少し、古典に書かれている内容や背景にある考え方の解説に比重があります。
古典の文体と内容を知ることは、今私たちが使っている言葉や依っている常識が絶対のものじゃないことを思い出させてくれます。外国と比べるまでもなく、この同じ日本でも時代によって全然違うということは、日本にはすでにそれだけの幅を持った可能性があるということ。表現の幅、価値観の幅は日本だけでも意外と広いのです。
古典を学ぶ必要はないという意見も聞こえてきます。
でも、今という時代は古典が生まれた時代から続く歴史の中にあり、私たちが生きる今もいつかは古典になります。今の私たちが古典に触れて感じる昔の不自由さや時代の限界を、未来の人たちは私たちの時代にも見るのでしょう。古典は今の時代に無関係ではないのです。今の時代を客観的に見るためにも古典に触れる機会はあったほうがいいし、意味はあります。
じゃあ歴史を学べばいいではないかとも聞こえてきそうですが、少し違います。歴史はあくまでも「現在の解釈」でしかないけれど、古典は「その当時の日本人が、何をどう書いたのか」そのものであるのだから。
古典を読むことは、橋本治が書くように、日本語の多様な表現を知ることであり、考え方の多様さに触れることでもあります。著者名や作品名の暗記ではありません。大人になった人が古典を必要ではないと判断するのはその人の自由ですが、若い人からその学びの機会を奪うような判断をそんなに簡単にしないでほしいと願います。
かく言う私は勉強嫌いだったものの、漢文書き下し文や「春はあけぼの」と聞けば「ああ、あれね」となんとなく聞き覚えがある感じがする。それだけですが、その「ああ、あれね」があるかないかでは全然違うように思います。“慣れ”の重要な第一歩なので。