小学校の先生の一言から受けたショックが、その後の人生に与えた影響力の大きさよ。
忘れもしない。小学校5年生、授業でグループワークをやっていた時のこと。グループ毎に机をくっつけて、大きな模造紙を真ん中に置き、みんなで話し合ったり、立ち上がって模造紙に何か書き入れたり、そんなことをしていた。
その時、教室の前の方で各グループの様子を見ていた担任の先生と目が合った。先生から手招きをされた。
「え、私?」と一瞬とまどった。私はとてもおとなしく、どちらかと言えば優等生で、先生から注意されるようなことは一切しない子供だった。グループワークの時もいつも通り普通にしていたので、注意されるような要素はひとつも思い浮かばない。
でも先生の顔はちょっと怖かったし、「何か悪いことしたかなぁ?」と不安な気持ちいっぱいで、教室前方の先生の机のところまで歩いて行った。クラスメイト達は引き続き各グループで盛り上がっていた。
緊張した面持ちで隣に立つと、先生は無言で紙に何かを書き、私に「見ろ」と言わんばかりにその紙を突き付けた。
紙には「協調性」と書かれていた。
先生は何も言わず、その怖い表情を変えなかった。
私は即座に、これは「私には協調性がない」そしてそれはよくないこと、つまり「協調性を持て」という否定的なメッセージだ、と受け取った。
思ってもいなかった否定をされて、ズキッと胸に何かが突き刺さるようなショックを受けた。ズキッとした胸の感覚を、今でもはっきりと覚えている。
私はその場で言葉を発することもできず、ただ、その紙を受け取るべきなのだろうな、という空気は感じ、受け取った紙を右手に持って肩をすぼめ、コクンと首を垂れて「すいません」というジェスチャーをするのが精一杯だった。
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そしてその後、私はもちろん、「協調性のなさ」に苦しむこととなる。
なぜか。
「協調性がない」イコール「よくないこと」であり「汚点」
という構図が自分の中に出来上がってしまったからだ。
それまでも十分嫌いだったが、その後、中学、高校と続く修学旅行がますます嫌いになった。
会社員になれば、ランチの時間が苦痛の種となった。どうやったら誰からも気付かれることなく一人でオフィスを抜け出せるか、そして一人こっそりランチを食べられるか、を考えるのがとにかく毎日しんどかった。
今思えば、堂々と一人でランチに行けたらよかったね、と思う。でも、当時の私は、それはすごく恥ずかしいことで悪いこと、だから人に見られたくない、と思っていた。そしてそれがとても苦しかった。
今は、分かる。「協調性がない」もしくは「協調性に欠ける」というのは私の特性であって、そのこと自体は別に否定することでもされることでもない。
つまり私は、「一人でいたい(時がある)」「群れたくない(時がある)」「合わせたくない(時がある)」。そしてそういう時は結構多い。
私にはそういう特性がある。この特性のお陰で成し得たことも少なからずある、と今は思える。
でも、ここに到達するまでが長かった。長いこと、苦しんだ。
だからもし、今どこかで同じように苦しんでいる人がいるとしたら。
「協調性がない自分」を、客観的に、そのまま、認めてあげて欲しい。
そうすると、少しずつ、人の中にいることも苦ではなくなってくるから。「協調性がない自分」のまま、人の中にいたらいい。そして、人の中にいたくなければ、怖がらずに、恥ずかしがらずに、一人でいてもいい。いい意味で、人はさして自分のことなんか気にしていないんだから。
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「協調性」と書かれた紙を右手にギュッと握りしめ、心の中はショックでズタズタなのに、何事もなかったかのような素振りでグループワークに戻って行った小学5年生の私に声をかけてあげるとしたら。
「協調性がないのは、強みでもあるよ。だからそのままの自分で、自信を持って人と接したらいい。それから、一人で、群れずにできる仕事、それは別に人と一切接しない、ということではなく、あなたの特性を最大限に生かせる仕事というのが世の中にはあるから、それを頭に置いておくといいよ」
と、言ってあげたい。