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本居宣長とは江戸時代に「国学」という学問を完成させた人物です。
国学の代表的な研究者は、賀茂真淵、荷田春満、平田篤胤(著書:仙道寅吉物語)らです。これに宣長を加えて四大人(しうし)とされています。
国学者達は、その研究活動を行う中で、儒教、仏教といった外来の思想をベースとしていた当時の日本の学問を批判し、純粋な日本の思想を追求しました。
本居宣長は、「源氏物語」を探求することにより、平安時代当時の人々がどんな考え方をし、どんな感性を持っていたか探ろうとしました。
三重県松阪市に、本居宣長が暮らした家が
保存されています。
宣長34歳の時、賀茂真淵が松阪に立ち寄った際に訪問し、生涯一度だけの対面を果たしています。その後正式に真淵の門人となりました。
宣長は、賀茂真淵の「万葉集」研究に触発され、自身も「古事記」の研究を始めます。そして「古事記伝」という古事記の解説書を書き上げました。
元々医者であった宣長ですが、以後古事記
研究と並行して語学の研究、評論などに没頭し多数の門人を抱えるようなります。
さて、著書「古事記伝」ですが、これは今申し上げたように「古事記」の解説書、注釈書です。
なぜ日本書紀でも先代旧事本紀でもなく古事記かと言えば、それは宣長が古事記こそが研究に耐えうる一次資料であり、他の古史古伝は二次的なものでしかないと考えていたからではないでしょうか。
宣長の注釈は今日なお批判に耐えうる価値を備えており、後世の多くの研究が彼の本文
校訂、訓読、注釈をその基礎としています。
問題点は、古代の文献をそのまま信ずることを大前提としているため、時に非合理な世界へと飛躍してしまうという点です。
宣長没後、自称門人の平田篤胤が現れ、独自の神道論を展開しています。
宣長の目標は正しく日本文化に根ざした、
借り物でない学問を築くことにありました。
そのために強く主張したのは、日本人の心に深く染みついていた「漢意」(中国的発想)を排除し、「やまとだましひ」をとり戻すことでした。
国学の成果は、神道の思想・制度に改変を迫り、明治政府の神道政策にも影響を及ぼしました。