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マラウイの主食ンシマと、すり鉢でする自然薯とろろの幸せな共通点
アフリカマラウイの主食はンシマである。マラウイには「ん」から始まる言葉がある。だから、「ん」で終わると負けになる日本のしりとりは成立しない。
そんな「ん」で始まるマラウイの言葉の代表格である主食ンシマと、日本の自然薯で作るとろろ。今年は、家にいる時間が長かったこともあり、とろろ作りにはまって何度も作った。作るうちに、両者の「白くて粘り気がある」という見た目の特徴以外にも、いくつもの共通点を見つけた。
ヤケド覚悟で作るマラウイのンシマ
ンシマは乾燥させたトウモロコシを粉にひいたものを、火にかけた鍋のお湯に少しずつ溶かし入れ、しゃもじのような道具でだまにならないように混ぜながら練って作る。
このンシマを作っている間は、火にかけた鍋につきっきりになる。まずはお湯を沸騰させた後、少しだけ温度を下げてからトウモロコシ粉を入れてスタートする。
粉を適量入れてかき混ぜて練って、を何度か繰り返してペースト状にしていく。混ぜ方も一様ではなく、ンシマの粘り具合によってしゃもじの動きに巧みに変化をつける。
終盤には、重いマグマのようにドロドロ煮えたぎった状態になる。その時は特に注意が必要だ。中の水分が気泡となり、時折ポンッっと破裂するのだ。激アツのンシマが飛び跳ねて手にかかる。
ただの熱湯と違ってドロドロだから、不運にも手にべっとりへばり付くと、やけどするほどに熱い。それでも、危険を覚悟でかき混ぜ続ける。
熱さに慣れていないと、何かの罰ゲームを受けているみたいだ。
かき混ぜ方、お湯の量、トウモロコシ粉の量、火加減、火からおろすタイミングなど、作り手によって微妙な差が出るのだろう。ンシマを食堂で食べたり、ご家庭にお邪魔してごちそうになったりしたが、全く同じ味と食感のンシマはなかった。
ンシマそのものには味付けしないから、大して味は違わないだろうと思いきや、別物かと思うくらい全然違う。
お米にも精米具合で白米と玄米があるように、実は、トウモロコシ粉にも外皮を取った真っ白いウーファ(Ufa)と、外皮を残したほんの少し茶色っぽいガイワ(Mgaiwa)がある。しかし、ウーファ同士、ガイワ同士でも味に差が出て、「その人」のンシマが出来上がるのだ。
日本の主食であるご飯は、というと、炊飯器のボタンを押して、数十分待つだけでおいしく炊けてしまう。もちろんコメの品種によって、全然味や食感は違うのだが、「その家」の味というのはあまりないのかもしれない。
炊飯器のグレードによって少しは変わるのだろうか。並べて比べたことがあるわけじゃないからよく分からないけれど、もし違いがあったとしてもそれは「その家」の味とは言えないだろう。
ンシマに通じる食べ物、自然薯とろろ
主食ではないが、手のかかるンシマと通じる食べ物を地元で発見した。自然薯から作るとろろだ。
自然薯は千葉県君津市の特産品で、栽培法が確立されてからは、直売所や道の駅などで手軽に買えるようになった。
かつては山の男たちが、秋の紅葉の時期に黄色く色づいたハート型の葉っぱを目印に見つけ出し、自然薯を折らないように大きく深く穴を掘って、ようやく手に入れたものだった。
自分の身長ほどの深さを掘らなければならないから、山堀りには相当な体力を使うらしい。持参したおにぎりだけでは足りず、「腹が減ったら、つるについている『むかご』を採って、生のままかじって食べた。ちょうどいい腹の足しになったし、山の中で食うと余計にうまかったよ」と、実体験を伯父から聞いた。
ちなみにその伯父によると、地域には名人級のおじいさんがいて、目印となるハート型の葉っぱが落葉した後の枯れた細いつるから、自然薯を見つけることができたのだとか。
自然薯を擂るときには、あぐらをかいて
まずは自然薯のひげ根を丁寧にむしり取るか、あぶり焼くかしてきれいにしてから、すりおろし器でおろし、擂り鉢に入れる。
擂りこぎは山椒の木からできた、ごつごつしたものがいい。母によると、私の祖父は擂りこぎも手作りしていたらしい。一本の山椒の木から10本ほどを削り出し、知り合いに配っていたという。
お好みで生卵を1つ落とし、擂りこぎでよく混ぜる。あとは、かつお節などから取っただし、もしくは濃い目のみそ汁のうわずみを少しずつ入れて擂って、とろろをのばしていく。
私は豚肉の小間切れを入れてコクを出すのが好きだ。だしをとった後の豚肉そのものもうまい。
擂り鉢は地べたに置いて、あぐらをかいた脚で抱え込むと、安定して力強く擂れる。根気強く、少しだし汁を入れては擂る、の繰り返し。ダマにならないように、なめらかにいい具合の粘りになるまでゴリゴリ擂る。
粘りが強い、山堀りの自然薯ほどではないけれど、栽培ものの自然薯もそれなりに体力を使う。擂りこぎと擂り鉢がこすれる低くうなるような音が聞こえている間は、とろろのことだけを考えて無心になれる。それがいい。
ただ、うっかりよそ見などしてとろろが手に付くと、付いた部分がかゆくなるから要注意だ。
だし汁の味、のばし具合の好みは違うし、なめらかさや粘り具合は、擂り加減によって違ってくる。作り手によって味が決まるから「その人」「その家」の味が生まれる。
「ンシマ」と「とろろ」の共通点
ンシマと自然薯とろろの共通点には、良さと欠点の両方があった。手間がかかったり、リスクがあったりと欠点があるからこそ、良さが引き立つ。
●「その人」「その家」の味があるということ
●シンプルだからこそ、素材に向き合えること
●作っている間、全然目と手が離せないこと
●リスク(ヤケド、かゆくなる)があること
●他のことはあまり考えず、ただおいしくなってほしいと思って作ること
「時短」の対極にある時間の使い方
自然薯の旬は、秋が深まる頃から、本格的な冬に入る前までの短い期間。日本ではトウモロコシ粉はなかなか手に入らないから、地元君津市で育った旬の自然薯で、今年は何度もとろろを擂った。
手が込んだおしゃれな料理を作るために時間をかけるのではなく、シンプルに食べるために時間を使う。
ンシマを「混ぜて練る」、とろろを「擂る」というただの単純作業に、時間だけが無常に過ぎていくのを楽しむ感覚。ファーストフードとか、いま流行りの「時短」とかの対極にある時間の使い方だとも言える。
一見すると、無駄な時間に思われるかもしれない。効率的な方法はないか、機械化できないか、なんて考える人もいるかもしれない。
でも、食べ物にシンプルに向き合える時間は、きっとそれ自体に価値があって、幸せなことなんだと思う。