心の扉を開く時・・・対人関係と生き甲斐の再発見
知人友人の中で、すこぶる対人関係が苦手な人がいる。どのような気持ちで人に接しているのか分からないけれども、どうも、過去のトラウマなどもあるのか、どんなにこちらが胸筋開いても、心の扉を開いてくれない。
電話で話していても、どこか暗い。反応が鈍い。本人の口から「少々病んでいるのを自覚しています!」と口にする。本当に心が病んでいるのならば、自覚症状はないはずだ。ただ、心が躍っていないだけの話である。
好きな趣味にも力が入らず、普段の仕事で心身ともに疲弊しているのかも知れないが、人間は物理的にも精神的にも、個人差はあるものの、限界というものがある。それを越えてしまえば、誰だって凹むはずだ。
その調整、コントロールは自分自身で遣るしかない。そこで、毎日同じパターンで心身ともに疲弊の連続であれば、身も心も蝕まれて、壊れてしまう。子供ではないのだから、そこは自分自身をリモートすべきである。
大の大人が、それも、五十を過ぎた壮年の健康な男性ならば、弱音を吐くような隙を自分に与えるものではない。オフィシャルもプライベートも充実させることに傾注すれば、心身のバランスを取るのは思いの外楽しいもの。
その楽しさを知らずして、毎晩のように仕事で疲弊してしまうのは、例えば、雇われの環境であれば、六割ほどの力を発揮すれば良い話である。そこで格好つけて「遣ってる感」を無駄に作るから、疲弊が倍増する。勿論、サボタージュせよとのサジェストではない。
仕事で心が折れ、体を壊してしまうことほど、馬鹿らしいものはない。筆者は経営者の端くれだが、起業して、フレックスタイムを早期に導入し、スタッフが一番気合の入る時間帯に仕事をするようにしてきた。
ある日、一人のスタッフが、あるミュージシャンの全国ツアーが九州に来るので、途中、広島と博多に行っていいかとの打診があった。即、「行ってらっしゃい!事故のないように!」と伝えた。
しかし、筆者が今直視している二人の男性は、心に勢いがない。楽しみが何なのかも分からない。日々の仕事に埋まってしまう悪しきスパイラルに巻き込まれているように思えてならない。
本日、11月8日午後からは、久しぶりの「Well Done Cross-media」のランチ会と撮影会である。マスコミ関係者もいるので、なかなか皆が勢揃いすることは少ないが、このようなオフ会にでも、その二人も積極的に参加すれば良いものを。
人間、生き甲斐をなくしてしまうと、生きている自分自身が何なのかを自問自答するようになる。筆者にとって生き甲斐とは、仕事を、趣味を、そして大切な人をがむしゃらに愛すことである。
年齢を重ねると、仕事も趣味も大切な人も窒息するほど抱きしめたくても難しいが、心の中では、いつも全てを窒息させているように思えてならないが。(苦笑)
▼ChatGPT-4oによる感想
このエッセイは、対人関係の困難さや生き甲斐の喪失について深く掘り下げています。特に中年期における心理的な闘争と、職場のストレスが個人の幸福感に及ぼす影響を巧みに表現しています。
筆者は、対人関係が苦手な人々の心の閉塞感を描写することで、読者に共感を誘います。この共感は、多くの人々が日常生活の中で感じるかもしれない孤独や疎外感と重なります。特に「心の扉を開く」という表現は、他人との繋がりを築く際の躊躇や葛藤を象徴していると感じられます。
また、仕事に対する態度とその心理的な負担についても言及しており、筆者自身が経営者としての視点から提案する解決策が興味深いです。フレックスタイムの導入や、スタッフの個々の生活リズムに合わせた勤務体制の調整は、労働者の精神的健康を保ちながら生産性を高める一例として挙げられています。
心の健康と対人関係の質が人生の質に直結していることを認識し、それを改善するための実践的なステップを提案している点で、このエッセイは多くの読者にとって有益かつ啓発的です。特に、プライベートとオフィシャルのバランスを如何にして取るかという問いかけは、現代社会において多くの人が直面している課題です。
最後に、エッセイが提示する「生き甲斐」とは何かという問いに対する答えが、多くの読者にとって響くものがあるでしょう。筆者が指摘するように、趣味や仕事、大切な人々との関係を通じて生き甲斐を見出すことは、人生を豊かにする基本的な要素です。このエッセイは、心の扉を閉ざしてしまった人々に向けた、心を開くための一歩として機能する可能性を秘めています。
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