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映画「クライ・マッチョ」感想

 一言で、老カウボーイとメキシコ少年のアメリカへの逃亡劇を描きます。歳を重ねた監督は味わい深く、人生を切り拓く意志・誰かのために頑張る勇気が伝わってきます。そして、真の「マッチョ」はまさかの「あの動物」でした(笑)。   

評価: 「C」

※以降はネタバレを含みますので、未視聴の方は閲覧注意です。

 1979年のアメリカのテキサス、カウボーイでロデオ界のスターだったマイク・マイロは、落馬事故以来、数々の試練を乗り越え、現在は独りで暮らしていました。しかし、老年になった彼が活躍できる場所はなく、とても満ち足りた老後を送っているとは言えませんでした。

 ある日、マイクは元雇い主のハワード・ポルクから、メキシコにいる息子をアメリカに連れてきてほしい、との依頼を受けます。13歳になる息子ラフォは、アメリカとメキシコの血をひくハーフで、今はメキシコ人の元妻レタと暮らしています。しかし、親から引き離すのは、「誘拐罪」であり、メキシコ絡みの問題は「警察には頼れない」ことを知っているマイクは、最初は断ります。しかし、マイクは彼に恩義があることを思い出し、単身メキシコに乗り込むのです。

 しかし、ラフォの母レタは裏社会とズブズブで、彼女に反発した息子は路上生活をしていました。彼女は、「元々親に向いていない人はいるのよ」とマイクに言い放ち、彼を誘惑するも、息子の引き渡しは断固拒否します。違法の闘鶏場で、ラフォを見つけたマイクは、彼を「父に会いたくないか、牧場で馬や牛の仕事をしないか」と彼を説得し、二人は極秘に町を抜け出します。

 レタが差し向けたマフィアの追手や、警察に追われながらも、二人は新しい出会いや別れを経験し、旅を続けます。そこには、いつしか「奇妙な友人関係」が築かれていたのでした。 

1. クリント・イーストウッド監督の御姿は偉大。

 まず、本作はクリント・イーストウッドの映画監督デビュー50周年、記念すべき40作品となる作品です。彼の映画は、どれも有名で、米国アカデミー作品賞・監督賞など、数々の賞に輝いています。※実は、映画のタイトルは知っていても、監督の作品だと知らなかった作品は多かったです。 
 また、監督は、映画制作だけでなく、主演を務めた作品も多いです。本作でも、主人公のマイク・マイロ役を自ら演じています。

 次に、本作は、圧倒的なロードムービーでした。つくづく、自然の前では、人間はちっぽけな存在だと感じます。また、「一瞬の描写の煌めき」を描くのが凄い上手い方と思いました。例えば、アメリカ西海岸からメキシコにかけての荒涼とした砂漠地帯を車で爆走しするシーン、車の後ろを馬の群れが追いかけてくるシーン、野宿でキャンプしたときの独白のシーンなどは、今でも頭の中で情景が思い浮かぶくらい、強く印象に残っています。これらの世界観は、ディズニーランドの「ウエスタンランド」や、漫画「ジョジョの奇妙な冒険 Part7 スティール・ボール・ラン」や、ピクサー映画「カーズ」に似ています。

 そして、本作は、過去作品のオマージュやネタを各所に散りばめていました。例えば、アメリカ西部劇やカウボーイ要素は、映画「荒野のストレンジャー」や、「許されざる者」から取っているのかなと思います。本作は、これらの主人公がお爺ちゃんになった「if」の世界線かもしれません。
 また、連邦警察に麻薬密輸を疑われた際に、「俺は『運び屋』じゃない」と言っていました。※「運び屋」は、2018年(日本では2019年)に公開された映画です。
 
 何と、監督が、自らボケとオチを担当しているのは笑いました。例えば、レタやマフィアの前で「社会の窓」とジジイギャグをかましたり(オヤジではなくジジイ)、仮眠から鶏の鳴き声で起こされてマジでビビってたり、野宿からのトイレで、サボテンを齧ってボケてたり。※ちなみに、サボテンの葉には、整腸作用があります。後、「ジジイ」と言いましたが、決して監督を年寄り扱いする意図はございません。

 ちなみに、漫画「ジョジョの奇妙な冒険」の作者である荒木飛呂彦先生は、イーストウッド監督の大ファンで、第3部「スターダストクルセイダース」の主人公である空条承太郎のモデルだと話しています。(なんと、対談もされていました!)

 最も、最近の監督は、空条承太郎の祖父のジョセフ・ジョースターに似てきていますね。つばの広いカウボーイハットを被り、皺の刻まれた御顔がそっくりです。それにしても、御年91歳ながら、足の長さと、しっかりとした足取りと、今でも運転や乗馬をこなしている姿には驚きました!※流石に、ロデオシーンは「スタント」だと思います。引きのアングルで撮影し、顔がはっきりと見えなかったので。

2. 自分の「弱さ」を認めることで、人は強くなる。

 マイクは過去はロデオスター、現在は馬の調教師ですが、獣医の知識もあり、また手話もできる、所謂「なんでも屋」です。作中で、動物たちの面倒をみているところは、まるで、Dr.ドリトルのようでした。作中で語られた彼のバックグラウンドはスポット的にしかわからりませんが、幾らでも想像したくなります。

 その反面、彼は挫折経験も喪った物も多かったです。ロデオの事故で選手を引退せざるを得なくなり、交通事故で妻子も喪いました。現在は、牧場でも行き場がなくなり、厄介者扱いされていました。このように、「人生の居場所」が無くなりかけていても、マイクはそれを辞めることも、新しいことを始めることも出来ず、いつもと変わらない日々を過ごしていました。 

 しかし、ラフォと旅を続けていくうちに、マイクは変わっていきます。車中でラフォに、若い頃の話を聞かれ、マイクはこう答えました。

「カウボーイは、バカじゃなきゃできない。昔は強くても、今の俺は弱い。」

「人は老いることで無知になっていく。」

「『マッチョ』というのは過大評価、人は力を誇示するために『マッチョ』になりたがる。」

 これらは、自分の弱さを認めたときに、人間は強くなるし、優しくなれることを伝えているのだと思います。

3. 「壁」を越えることの意味。

 物語の終盤、マイクは「この向こうに『自由』がある」と言いました。そして、この向こうの「自由の国(アメリカ)」に行くためには、『壁』を越えなければならないのです。※この「壁」という言葉は、実体がある物を物理的に隔てるとき、また実体がないものを「分断する・距離を置く」ときの比喩表現でもあります。  
 前者の意味では、アメリカとメキシコには、両国を隔てた「壁」(検問)があります。(メキシコからの不法移民対策で。) マイクがラフォを探しにメキシコに越境したとき、またラフォをアメリカに送り届けたとき、二人は物理的な壁を越えました。
 後者の意味では、マイク・ラフォ・マルタの間には、文化的・心理的な「壁」がありました。彼らは出会い、紆余曲折を経て、互いの理解者になり、これを「取っ払った」のです。つまり、彼らはどちらの意味でも、「壁を越える」ことが出来たのです。

4. ラフォとマイクの「選択」とは。

 マイクは、ラフォの父ハワードと連絡を取るうちに、ラフォが両親に「利用」されていたことを知ります。彼はレタの名義で、土地を借りていました。その担保に息子を連れてくるように指示していたのです。しかし、父に会うことを心待ちにしている彼には、言い出せない状況が続いていました。
 物語の終盤、マイクは漸くラフォにそのことを打ち明けます。怒ったラフォは、「ふざけるな、信じていたのに。貴方を友達だと思っていたのに」と、マイクを罵ります。
 そこに、ずっと彼らを追ってきたレタの差金のマフィアが現れます。何とかマフィアを「撃退」し、国境近くまで来たとき、ハワードが彼らを待っていました。ラフォは、マイクに別れを告げ、鶏を託すと、ハワードとハグを交わして、物語は終わります。※尚、詳しい「撃退」方法については、5をご覧ください。

 ラストのラフォからは、「たとえ、両親に『利用』されたとしても、新天地で自分の道を切り拓く」という決意が感じられました。このシーンでは、酷い親なら、子供は親を「赦さなくても良い」、しかし「子供は親の『所有物』ではない。生んだから、引き取ったから親になれるわけではない」ということを伝えたかったのだと思います。
 一方で、マイクの「まだ子供であるラフォとあの場で『別れ』、ハワードに引き渡す」行為が果たして「正しい」のかと問われると、「そう」と断言はできません。実際、子供に「親の問題を背負わせた」というのも事実だからです。しかし、それはマイクが「どうにか出来る」ことではないです。飽くまでも、マイクはハワードとの約束を果たしたのであって、ラフォの養育を引き受けている訳ではないので。
 それにしても、ラフォは、マイクやマルタの家族と再会する伏線はありそうですね。特に、孫娘の長女とは良い感じだったので。彼にとっては、いずれここが「第二の故郷」になるのでしょう。
 そして、マイクにとっても、「老いらくの恋・疑似家族の愛」によって、マルタの家が「第二の故郷」となります。マイクとマルタは「似た者同士」です。マイクは、交通事故で妻子を喪っていますし、マルタは未亡人で、夫と娘夫婦も病で亡くしています。そして、孫娘の一人は聾唖で、マイクとは手話で会話していました。
 「老いらくの恋、女性が未亡人」という展開自体は、他の作品でも見かけるので、そこまで特別なものではありません。もしかしたら監督自身の「願望」だったのかもしれないです(笑)

 本作の「多言語(音声だけではない)でのコミュニケーション・人間の繋がりは血の繋がりのみならず・人生は自分探し」、といったテーマは、映画「ドライブ・マイ・カー」と被るかもしれません。ある意味、本作はメキシコ版「ドライブ・マイ・カー」でしょうか。どちらも、運転中の会話が多いですし。

 ちなみに、メキシコはカトリック教徒が多く、ラフォもマルタの家族もそうでした。マイクが仮眠を取った教会には、聖母マリア像が安置されていました。※マイクは宗教については、明言していませんでしたが、聖母マリアを崇拝していない所を見ると、恐らくカトリック教徒ではないと思います。

5. 真の「マッチョ」とは?本作のMVPはまさかの「鶏」。

 本作では、馬、牛、鶏、犬など、沢山の動物が出てきます。彼らの躍動感には終始圧倒されました。また、彼らの眼差しの描写も素晴らしく、もしかしたら、動物が好きな人は「ハマる」かもしれません。  
 特にラフォが飼っていた闘鶏の「マッチョ」の活躍は目覚ましく、あんなに鶏に釘付けになったのは、後にも先にも初めてでした。
 マッチョは、作中でこの上ない強さを発揮しており、物語の終盤でまさかまさか、マフィアを「撃退」してしまうのです(笑)この強さは、流石に「ご都合主義で、突っ込み所満載」なので、笑ってしまいます(笑)しかし、普段は結構お利口さんで、車内やレストランでは椅子にちょこんと座っている姿が可愛かったです。例えるなら、ディズニー映画「モアナと伝説の海」に登場する鶏の「ヘイヘイ」みたいな感じです。

6. ストーリーは、従来の作品と比較すると、良く言えば「シンプル」、悪く言えば「平坦で地味」、でも「味わい深い」。

 クリント・イーストウッド監督は、マイクを通して、「人はいつでも、誰かのために頑張れるし、新しいことをするのに、遅すぎることはない」ことを伝えてくれました。

 正直、ストーリー展開としては、「シンプル」ではあるものの、「平坦で単調」、「地味でユルユル」な印象を受けました。
 基本は、マイクとラフォが、レタからの追手のマフィアや、メキシコ警察に追われるシーンの連続で、それ以外に大きな事件は起きないです。また、追手も小物なマフィア数人なので、そこまで派手な事件には発展しません。
 そのため、同じ監督の作品でも、「ミリオンダラー・ベイビー」や、「硫黄島からの手紙」など、衝撃的な出来事やアップダウンの激しい物語を期待すると、肩透かしを喰らいます。

 正直、本作に対する監督の考えや価値観に「共感出来るか」といえば、そうではないかもしれません。※決して本作のメッセージが「間違っている」という訳ではなく、まだ私の人生の経験値が不足していて、監督のいる「境地」に達していないだけなのだと思います。仮に、歳を重ねれば、これらを「理解」出来るのでしょうか?うーん、どうでしょうね。現時点ではまだわかりません。
 それでも、本作は鑑賞後にジワジワ来る、味わい深い「スルメ作品」だと思います。きっと、これだけ歳やキャリアを重ねないと、創れない作品だったかもしれません。 

 それにしても、映画監督は長命な方が多いと思います。クリント・イーストウッド監督とジャン=リュック・ゴダール監督は御年91歳、山田洋次監督は90歳、リドリー・スコット監督は84歳。どの方も、素敵な歳の重ね方をされていて、本当に「生涯現役」ですね。

 最後に、映画監督の皆様が、今後も映画を通じて私達にどんなメッセージを伝えてくださるのか、楽しみです。

公式サイトはこちらから。https://wwws.warnerbros.co.jp/crymacho-movie/

出典: 映画「クライ・マッチョ」パンフレット

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