【エッセイ】宇宙旅行🚀
旅の始まりは2021年6月22日、コロナ禍の緊急事態宣言が解除された二日後だった。
正午過ぎ、私は歩いて15秒足らずの職場から昼休憩を取るために帰宅した。
リビングには夫がいた。
高血圧の夫は、3ヶ月に1度病院で血液検査を受けているのだが、その数値で気になるところがあったらしく、朝一番に大きな病院で再検査を受けてきた。
私は台所へ行き、有り合わせで食事を作りリビングに戻った。
食卓に皿を並べながら、私は夫に声をかけた。
「検査、どうやった」
「うん、飯食ってから言うわ」
「かまへんよ」
私は、コップに水を注ぎ夫と自分の前に置いた。
「癌やて、腎臓癌、ステージ4」
夫はひと息でそう言った。
「へぇ」
私は声を出した後、何を話したのか思い出せない。
夫と出会って24年、私は夫に守られて生きてきた。
夫を信じきって、夫に頼りきっていた。
すっかり安心していた私は、何の前触れもなく、突然、深い穴に落っこちてしまった。
「何で落ちてるの?」
人ごとのように言いながら、私は落ちている。
なかなか地面に着かなくて、「なるようにしかならんか」とつぶやいたら、腹が据わってきた。
そういえば前につらいことがあった時、どん底まで落ちたら、その後すーっと浮き上がって、気持ちが楽になったことがある。
あの時と一緒だ。
私は深い海の底に沈んでいく自分を想像し、全身の力を抜いた。
沈むに任せながら、私はこの暗闇から二度と抜け出せないかもしれない、とも感じていた。
ふと我に返った時、私の顔はぬれていた。あとからあとから涙があふれ出す。
再び目を閉じた。
夫に甘え過ぎた。
夫の病気は私のせいだ。
私が夫に無理をさせたのだ。
病気に気づいてあげられなかった。
私は真っ暗な海を、さらに下へと下りていった。
(どうしよう)
前の年コロナ禍の影響で、緊急事態宣言が出される前から、夫の仕事は減っていた。
舞台監督である夫の業界への支援金は、驚くほど少なかった。
「お父さん一生懸命働いていてきたから、ゆっくり休んだらいいよ」
なんて軽く言っていたら、夫は本当に働けなくなってしまった。
治療費はがん保険で支払えるが、大学生と高校生の息子がいる。私の給料では全然足りない。
夫や家族を支えなければならない、という重圧が私の肩にのしかかってきた。
「心配ない、あんたと息子くらい私が養うから」なんて言えなかった。
夫の病気を知る人から、「旦那さんのこと、守ってあげてね」と言われるたびに、私だって守ってほしい、と言いたかった。
「旦那さんの看病に専念して」
そんな言葉を残して、私の周りから人が居なくなるように感じた。
自業自得だと思う。人とつきあうことが苦手な私は、普段から人を大切にしていなかったのだろう。
(あとどれくらい‥)
「うん?」
私はふいに、自分が沈んでいないことに気がついた。
「海じゃない」
もっと大きな、とてつもない所にいる。
上か下か横か斜めか、どこを向いているのかわからないくらい、大きな闇の中にいる。
(え、宇宙?)
私はぽかんと首を傾げた。
「そら足つかんわ」
納得したら笑けてきた。
馬鹿でかい、宇宙のどこかに私はいる。
子どものころ百科事典で見た宇宙は、星が輝いてきれいだった。だけど、今、私が放り込まれたそこは光の無い世界だ。
誰にも見つけられないであろう真っ暗な宇宙で、私はゆっくりと動いている。
いや、よく見たら物凄い速さで進んでいた。
私はやっと自分の置かれている状況を理解した。
「上等!」
誰に喧嘩を売っているのか、とことんやってやろうという気なった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
向こうの方に黄色い点のようなものが見える。ぼんやりと小さく光っている。
「やっと終わる」
私は、直感した。
現実に戻ってきた。
私は、息子たちとほこりにまみれて大掃除をしている。リビングではつけっぱなしのテレビから、1年を振り返るニュース映像が流れていた。
画面を見てぎょっとした。あれから1年半の月日が流れていた。