百年の孤独
以前読んだのは20年くらい前で、内容などはすっかり忘れてしまったが族長の秋のほうが面白かった記憶があった。内容を忘れた本を読んだとは言わないからもう一度読んでみた。そうしたら百年の孤独のほうがよほど面白かった。もちろん族長の秋も傑作である。
読み終わるのに3ヶ月以上かかってしまった。ページをめくる手が止められなくなってしまうような類の本ではないが、意識を集中させながら読むとその面白さがわかる。よって読むのが大変疲れるので数ページずつしか進まないのである。
文字は上から下右から左までぎっちり詰まっていて、会話のカッコがあるから行変えなどとしないから隙間なく文字によって埋め尽くされている。それでいて本はすごい厚みがある。読み終わらないわけだ。
本の値段というのは面白くて、2時間くらいで読めてしまうようなエッセイも百年の孤独もその価格に大して違いがない。同じ2千円とは思えないような密度の差があっても2千円は2千円なのである。映画の値段も同じようなものか。駄作も名作も鑑賞料金は一緒と同じ理屈に本の値段は成り立っている。もっとも百年の孤独は名作だから1万6千円にしようとかやられると困ってしまうのもまたジジツである。このような名作ほど安価で提供し、貧富の関係なくだれでも読めるようでなければならないからだ。
ガルシア・マルケスというひとはひとたび文章を書き出すとやめられないひとである。多分一冊の本を一生書き続けることができるひとである。しかしそれだと一生本をだせないことに理性が気がついて仕方なく区切りをつけているに相違ない。だから極端な話、途中から読んで途中でやめても一向かまわないのである。
族長の秋を読んで百年の孤独を読んで族長の秋が含まれる本のほかの短編を読まねばならないという気持ちに今ぼくはなっている。短編といってもマルケスにとっての短編であって、普通の作家なら長編扱いの量である。
ぼくには以前コロンビア人の友人がいて、やはりマルケスの小説を読んで彼らを思い出した。南米の暑っ苦しい空気と彼らの気ままさ奔放さが混ぜ合わさって紙から臭うほどであった。彼らのインスタントな情熱は日本人にはないものだ。したがって百年の孤独を読む日本人と百年の孤独を読むコロンビア人との間には大きな隔たりがあって、同じ本を読んでも受ける熱狂はおそらくまるで違うものなのだろう。コロンビア人の感想を聞いてみたいものである。