幸せが一秒でも続くよう、熱々のお湯を沸かす。
最近、嬉しいことがあった。
普段なら誰でもいいから伝えたくてTwitterに書き込んだり、あるいは仲のいい友人に1秒でも早く連絡するだろう。
その時も、いつものようにスマホを手に取った。
TwitterとLINE、どちらにも書いてしまおう。全世界に向けて発信しよう。みんな、聞いて、私きょう、こんなに素敵なことがあったよ!
ーーー スマホのロックを解除しようとして、思い留まる。
いつもなら簡単に、親指一つでぽちぽちと(あるいは両手でカタカタと)全世界に発信していた個人的な喜びを、今日は、私の中でだけ留めておくことにした。
*
時計の秒針がカチカチと進む音や、上の階の人がパタパタと忙しなく駆けていく音など、日常に転がっている音が好きなのだけれど、その中でもダントツで好きなのが「やかんでお湯をシューシューと沸かす音」だ。
いつから好きなのか、何が好きなのかは全く分からない。
この「やかんでお湯をシューシューと沸かす音」が大好きで、朝起きたらお湯を沸かすことが、私の1日の最初の仕事だと思っている。
電気ケトルじゃ、だめだ。
あっという間にすぐ沸くのは便利だし、電気ケトルの静かな怒りみたいな「ゴポポポポポ」という音も、なるほど、確かに悪くはない。
だけどやっぱりやかんの、シューシューと静かに頂点に達していく音が、最高に好きだ。
その音は決して怒っているのでも、喚いているのでもない。
笑っている。
私にはどうしても、やかんが笑っているようにしか聞こえない。ふふふ、ふふっ、ふふふふ。
注ぎ口から溢れ出す白い煙は、まるで寒い日の小さな子供みたいで、無邪気に「ふふふ」とうっすら立ち込めている。
もうこれ以上熱くなれないよ!と達した時、やかんはカタカタと肩を、いや、蓋を震わせる。慌てて火を止める。
いつも思うのだけれど、今、この瞬間が、やかんにとって、最も熱い状態なのだろうか。
蓋を開けてしまったら、温度は下がり出す。
水がお湯と変わり、ボコボコと波打っているのを見るのも好きだ。だけどそれを見ようと蓋を開けると、やかんの中のお湯はたちまち、冷え出してしまう。
一度開けるとそこからはもう、お湯は水に向かって、温度を下げ続けるしかないのかもしれない。
*
一生懸命、クスクスうふふと笑いながら沸かされた熱々のお湯を、どうにかして保ちたい気持ちに駆られる。
特に意味はないし、そのお湯で「お茶」だの「コーヒー」だの「お白湯」だのを飲むに違いはないのだけれど、一秒でも長く、熱いままでいて欲しい。なーんて思ってしまう。
熱々のお湯で満たされたやかんを、嬉しさでいっぱいに満たされた心を、一秒でも長く保っていたいと思うのは、あまりにも傲慢だろうか。
どんなに熱いものだって、いつかは冷えてしまうのだ。どんなに愛おしいものだって、いつか喜びは薄れてしまう。
それなら、グッと堪えて、ただ自分だけで楽しむ。
やかんの中でグツグツと煮えたぎっている、熱々のお湯を想像する。私の心の中で頂点に達した、寄せては返す「喜び」を想像する。
蓋を開けることなく、誰かに伝えることなく、グッと堪えて、自分ひとりで楽しむ。熱々のお湯を、寄せては返す、喜びを。
そういう「幸せの噛み締め方」をここ数日、身につけたような気がする。
時々我慢できなくなってつい、ふふふ、と口から漏れてしまうけれど。
小さな注ぎ口から漏れ出す、白い湯気のように。
2021.03.09 k i i a