ドライとウェット
この間、遂に藤本タツキのルックバックを観た。
又吉も絶賛していたし、「このマンガが凄い!」の見出しを何度も本屋で目にしていたからあえて漫画は手に取らずに映画を先に期待して見に行ってみたら、期待の上をいってしまった。
号泣もいいところ。片手に持ったハイボールのカップを揺らしながらウワンウワン泣いた。
元々1人で映画館に行く時は決まって、溜まっている涙を出し切りたい時か、エマ・ストーンが出ているからかのどっちかに決まっている。
なれば、藤本タツキが天才だという以前に私の情緒がかなり不安定だっただけなのかもしれないという懸念が生まれるがそういう訳でもない。
何人何十人何百人という知らない人達からの讃美より、ひとりの憧れの人からの推奨が自分の心を本当に奮い立たせるのではないか。と、ルックバック藤野を見て思う。
私も無数の他人からの「イイネ」なんてものを欲しいという訳では無いのだと日々生きている中で感じる。いいモノを知ってる人達による「イイネ」がどれほどの威力があるものなかを知っているからこそ、我儘ながらに、そういう人達に「観られたい」と思うのである。
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自然よりも人の目が多い所で働いていると、やはり自分のキャパシティが狭まってしまう。
都内の飲食店で働いている中で、入ってくるお客さん全員に嘲笑われながら何か良くない事をひそひそ話されている感覚に陥る時がある。人の数だけ目があって口があるんだ、という意識をしてしまうと忽ち自分の無力さを鼻で笑われているような気持ちになって、電車の中にいても街を歩いていても最近は、気が気じゃない。
だからこそ音楽を聴きに行く訳で。
あの、箱の暗闇の浮遊感や快楽感はそういう目の数や口の数を気にしなくていいところからきているものだと感じているわけで。
ただ、音楽やお酒にいくら抱かれてみてもその後の憂鬱が私を抱きしめてくれる訳もないわけで。
誰かに「会いたい」と言いたくて、誰かに「会ってくれませんか」と言われたいわけで。
その誰かっていったい誰なのかなって考えている時間が1番孤独だったりするわけで。
結局今はその誰かが分かったとして仮に愛してくれたとしてもそもそも自分を愛することが到底出来そうにないので、しばらくは本や映画や音楽にいそいそと明け暮れてみようかななんて考えている。
そうなった時「結局あんたは孤独が1番好きなんじゃ?」という疑問が出てくるわけだけど、「そうですね。」のひとことしか今は言えないのである。
小さい頃から、「孤独」に対しては一種の憧れがあったのかもしれない。
家庭も平凡、お金だって無いわけじゃなかった。
そんな私に比べて、10人中1人は苗字が途中で変わったり、家庭の事情で引越しを繰り返している子だってちらほらいた。
自分の現状を幸運に思うべきはずなのに、私は何故か羨ましがっていた記憶がある。
骨折をして松葉杖で学校へ行くと一躍ヒーロー扱いされるあの感覚、現象のように。
幼い頃はあの感覚が欲しくて堪らなかったのだ。
孤独を抱きしめていたのに、孤独は私の肩すら掴んでくれなかった。どんなに待ってみても幼少期に「孤独」が私を抱きしめることはついには無かった。そうして着々と明るさだけが取り柄の無駄に元気な女の子に育ってきてしまったのである。
だが今になってようやく「孤独」が私の肩を掴んできている。いや、ほとんど肩組み状態だ。
今は逆に孤独に抱かれているが、私は孤独を抱けない。あなたの肩すら掴みたくないよ。
好きだけど、深い関係にはなりたくないの。
あんなに切願していたのにね。
ただ、”孤独とは埋めるものでも逃げるものでもない”というのも一事実。
“本当に自分がやりたい事を形にできた時に得られるモノ”
これに向かって行動している時の人間が1番「孤独」と上手く向き合っていけるような気がする事にも気づいている。
冷たい-温かい、暗い-明るい、受動的-能動的、無秩序-秩序、潤い-乾き、があるように孤独により生まれるものはその人の「個」が公で遂に輝くものだと思っているから、これからも「孤独」を手放したくはないと考える。
アートだから。
おかあさん、あなたの痛みを全部頂戴
私の孤独に変換して
私がそれを輝きに変換する
そうしたい
今はただ
あなただけに抱きしめられたい