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10年以上の歳月をかけた結晶に唸るばかり(劇場版「進撃の巨人」完結編 THE LAST ATTACK」を観たことを機に進撃の巨人についてただひたすら個人感を述べているだけ)

日本を、漫画界を代表する作品にまたひとつ立ち会えたことを光栄に感じる。
「進撃の巨人/諫山創」

冒頭から個人的な話で申し訳ないが、映像より紙媒体を好む傾向もあってそれでこそ10年前に知り漫画は読んでもアニメに手を出そうともしなかったのについ先日封切りされた劇場版を観るきっかけとなったのは、巨大スクリーンにおける迫力を求めていたのと我敬愛する岡野昭仁さんが歌声を提供されている澤野弘之さんが音楽を担当されていると知ったからであるのと以前昭仁さんが梶裕貴さんを称賛していたことを思い出しその演技を見てみたいという経緯である(懺悔すると「七つの大罪」の劇場版を観たことがありその経緯は昭仁さんが主題歌を担当されていたからです。この件も今回の件も軽佻浮薄なことは痛感しておりますごめんなさい)

今から身も蓋も情緒もないことを申し上げるので不愉快になる方もいらっしゃるかと察するが閲覧は自己責任を願いたい。自分の正当性を妄信し如何に歪んでいようと異質でいようと自分の愛を相手が受け容れて当然、そうでないと知るとヒステリーを起こすということはなく、エレンの場合は自身が歪んでいることを少なからず認知しており葛藤した後の苦渋の決断であったこと、傷つけてしまうことに葛藤した後、憎まれてもよいから自分の手で終焉を迎えさせよう、仲間たちを、人々を憎しみと破滅に巻き込みたくないが故にエレンは決行したのかと予想しながら決行に至るまでの経緯と終焉を漫画にて目の当たりにした。
そして上記の軽佻浮薄さと迫力を求めてスクリーンに足を運んだ。


世界史。民俗学。地理学。人類史。殺戮。軍隊。人間の醜悪。本質。本能。死後の世界。生きるということ。終わりなきもの。思いつきそうで思いつかない生きとし生けるものの全てが集束されているように観察する。
いずれにせよ、話題である伏線回収、そこに至るまでの緻密な構成と作り込み、一寸ずれたら全てが台無しになったであろうからそれに対するリスク回避管理は気を張り詰めていたかもしれないと想像し、物語の構成力のみならず人物一人一人の葛藤、怒り、悲しみの描写が精巧であり、10年以上の重みと蓄積、それに耐え切る諫山先生の精神力と成し遂げた底力に唸り感極まるしかなかった(深読みしすぎなだけなんだろうが綴らせていただくことをご勘弁ください)

再び個人的な話で申し訳ないがエレンとミカサには幸せであってほしいと強く願っていたため、唯一頬が緩むであろう場面だと推察しているエレンがアルミンに見せただらしなさ(ミカサへの好意と未練)はしんみりするはずなんだろうけどエレンが人間らしくて微笑ましくてアルミンの言う通りカッコ悪くてどうしても笑ってしまう。アルミンが唖然とするのも納得である。
2人が一緒になれなかったのはエレンの死後の制裁かもしれない。そうなるとミカサが気の毒であるが、ミカサはエレンの罪を共に抱える覚悟があるからエレンとの別れは悲しくある一方受け容れて一緒になれないことが自分の罰と認識しているのかもしれないと考える。
だから旅立つ時にようやく会える、ようやく一緒になれると安らかになれたのではないだろうか。
そうなると益々切なくなる一方、アルミンとエレンのやり取りを思い出してしまい笑ってしまう。
始祖エミルはエレンの繊細さと邁進さに託けた気もする一方、「二千年、待っていたんだろう」というエレンの一言に涙した姿は繋がりを求めているという点でエレンに自身を重ねていたようにも見えた。
余談だが、始祖ユミルの王への愛(という名の依存)はチェーホフのかもめのニーナの作家への愛(という名の依存)と類似しているように見えて終始恐ろしいものを感じる。その恐ろしさと苦痛から解放されたいだけでなく、進撃の世界で1番丹田が据わり1番弱いミカサ(なように個人的に推察している)だからこそ始祖エミルはミカサに憑いたのかもしれないとも考察する。繋がりを求めていたというのは、受け容れてもらいたい寂しさが原因であろう。エレンとミカサの相思相愛への嫉妬もあったのだろうかと邪推してしまうが、それはそれで人間らしくてなんだかかわいい。

始祖エミルが繋がりを求めていたようにエレンも仲間たちとの繋がりを諦めきれない、仲間たちと一緒にいたかった気持ちが強いがために夢で会いに行っていたのだろう。死者は会いたい人に夢で会いに行くという一説を聞いたことがある。そう考えるとまた胸が締め付けられる。

アルミンの成長ぶり(講談で言うところのボロ忠売り出し)に喜びが隠せないこと、ハンジの「多くの死を出してきたけじめをつけてくる」という覚悟、その覚悟を受け容れたリヴァイの「心臓を捧げよ」「じゃあな。ハンジ」には胸が締め付けられた。リヴァイの人間らしさが見られること、昔馴染みが皆旅立ってしまったリヴァイの心境を考えると切ない。ジャン、コニー、ライナー、アニ、ガビとファルコ、ピーク、人々の確執が解けていくのも佳境の見どころであろう。

漠然とした空虚感があるが悲壮さはなく、儚さと切なさに胸が締め付けられた。その理由は引き摺るのではなく抱えながら歩んでいく遺された者たちがこの先待ち受けるものに向き合っていくからであろう。

何かを得るためには何かを犠牲にせねばならない。その摂理が物語を漂い、因果とも繋がりとも捉えられる壮大な物語に心血を注いだキャストの皆様、制作スタッフの皆様、進撃の巨人に携わった講談社の方々、そして諫山先生には頭が下がる一方であり「10数年間お疲れ様でした。そしてこれからも進撃の巨人が多くの方に愛されますように」と手を合わせていた(一体何様なんだろうか)


〈余談〉
「ああ。自分を毒しているなあ」と苦笑いしたのが、読んでいく途中および今回の観賞中「ここは講談の連続だとダレ場であろうか」「ここを落語や講談的に観ると……」と勝手に置換してしまう癖がこの1年で定着していることである。
所謂純粋に楽しめなくなっているという状態であろうが、これはこれでどこまでその状況でいられるか楽しんでいきたい。

(追記:2025.1.5)
初回観賞後、最終巻再読と2回目3回目観賞して反芻と考察を深めている。

数十年前はエレン、アルミン、ミカサ等の第104期の謂わば若い世代に視点を向けていたが、今はハンジ、リヴァイ、エルヴィン団長等の先代に視点が移り彼等の了見、心情を考察し観察を深めている。それがいよいよ感極まったのか、最終巻再読後と劇場版観賞3度目にして大号泣をしてしまった。

大号泣したわけを分析すると、心臓を捧げた多くの仲間に胸を張っていられるか隠れて苦悩した日々、その仲間たちと夢見た世界を迎えることができない悔しさ、次世代を担う者たちに希望を示すことができなかった責務を背負うからこそ己の役目はここまでだと判断しこの後の世界を歩む若人たちと旧知であるリヴァイを信じて身を投じたハンジの覚悟、いの一番に死ぬのは己自身だと信じて疑わなかったところ昔馴染みたちが全て旅立ってしまったことと己だけが生き残ってしまったという自責があるもそれに対して自己憐憫、悲壮さに浸ることは勿論一切なくその自責と後悔を抱えてこの後の世界を生きていくことを受け容れたこと、実は誰よりも仲間想いであるリヴァイの姿である。この分析ののち、あることに気付く。この物語は引き摺るではなく抱えながら生きていく人々たちを描いているのだろうと考察しつつも何を抱えているかは漠然としていた。抱えていくそれは「後悔」「犠牲」であると気付く。もちろんまだ沢山抱えているものはあるであろう。

この物語は主要人物がすべて助かりもしくは穏やかに最期を迎えることができて皆手を取り合ってこの後の世界を過ごすというような明るい未来を描いてはいない。影は付き纏う一方で悲壮感、憐憫の情は見当たらない。
その理由はアルミンの台詞にも表れているように、後悔、犠牲を経て生き延びてしまった者たちが待ち受けるのは新たな地獄であり、そうであっても後悔、犠牲などを抱えて生きていくことでそれらを決して無駄にすることはないということではないだろうか。そしてこれは所謂「滅びの美学」というものではと考察もしているのだが、どうなのか。その辺りも考えていきたい。

話変わるが「進撃の巨人」他作品を出して申し訳ないが「鋼の錬金術師」には103年前になろうとする大虐殺、80年以上前になろうとしているあの大戦での悲劇、惨劇を元にしている描写、出来事が散りばめられている(ここで具体例は示さずにいる)それはあの悲劇、惨劇を繰り返してはならない。しかしそれは今日どこかでも起こっていることを警鐘しているのではないかと考察する。と勝手ながらメッセージを感じており、それと銘打っていなくとも知らぬうち漫画とアニメにて歴史を知る機会を得られるということに感動した出来事も起きた。となると、元々侮ることはないが改めて漫画、アニメも侮れないなと唸るのである。

アニメ版を観ることはまずないだろうなあとかまえていたところが、我が敬愛する昭仁さんに楽曲提供もとい昭仁さんが歌声を提供されている澤野弘之さんが音楽担当と知り視聴に至ったことが今回観賞の理由であったのだが、主題歌ではなく劇中曲に関心を抱いたことに我ながら驚き、きっかけというのは幅広いことにまた驚いたという経験もできた。
(ちなみにサントラを聴き浸っている。澤野さんの作品に対する思い入れと心意気、総じて音楽創作に対する真摯な想いを勝手ながら感じて畏怖を抱いている)

様々な方面で「進撃の巨人」は機会を得ることができた個人的に印象の深い作品であると、改めて振り返るのであった。

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