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〈言葉を通した思索〉

詩を書くということ

ー詩を書くことは、言葉の木を剪定するということー

このような命題はどういう意味だろうか、自問自答しています。

詩を書くことをずっと続けてきたわけだけれども、そういった表現をするときに、言葉を、表現として何かしら見ばえの良いものにすることって、どこか植木屋さんのする剪定作業に近いのかもしれない、と思ったこと。文字通り"葉っぱ"とみることもできること。

でも、おそらくそれは、始めに大きなスケールのものを書いて(あるいは頭の中に思い浮かべて)、そこから削って、その行間を読んでもらおう!みたいな大それたものでもなく。

自分の使う言葉の節々からにじみ出てしまう、表情みたいものが漏れ出るのが、少し億劫。言い方はあれだけど、マスクして心情を悟られないようにするのに近い。(なのに表現として詩作に勤しんでいる!なんと憐れな!)

剪定した結果、それが何かになってほしいとか、青々と茂る木みたく健やかに成長していってほしいとか、はたまた街路樹みたいにささやかに何かをもたらしてほしいほしいとか(すぐメタファーほしがる)は、あとからつけようとすればつけられるもので。

言葉を綴ることで、何かを知ったように思うのも、そう思われるのも自分の望むところではない。

ただ、言葉が続いていく。それを剪定していく。そうした結果が積み重なっていく。

延々と実験している感じ。予想も立ててないし、フィードバックもない。(とか、うまく形容しようとするとまた、自分の望むところでない感じになりそう。)

要するに、今後ともよろしくお願いいたします

そんなものにも関わらず、記事を見てくださる方がいること、そういう場所があることは本当にありがたいと思っています(唐突な感謝)。

自分が書きたいときに書いて、読みたいものを読む。

今何かとオンラインでリアルタイムに私たちをつなげる手段がありますが、noteは他のSNSと違って、共有する時間に幅があれど、見に来ると、そのときに発表されているさまざまな作品に出会うことができる。

「スキ!」も面白いですよね。「良いね!」より深い表現かと思えば、意外にポップで広い表現にも感じる。いい意味であいまいに感じる。

…慣れないことするとだめですね。つらつら書くのはやはり向いていない。

とはいえ、詩が自分にとってすべてだとは思ってはいなくて、超将来的には、もっと色んな表現がしてみたい。そのために、今できることからやってみようという感じです。

最後に、かの孔子を詩人教育者として愛して止まなかった、私の尊敬する方の言葉を引用して終わります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

詩人は多くを語りません。余白と余韻を重んじます。決してうそをつきません。策謀を用ひません。人を裏切りません。こんな人柄こそ教育者として最も望ましいものではないでせうか。

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