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「あの先生は、どれだけ俺のことを馬鹿にすれば気がすむんだ」と その子は言った 反省文の害⑩

高校受験の二日前、不登校の男の子が言った。

 「いつもいつもいつもいつも思ってた、あの先生は、どれだけ俺のことを馬鹿にすれば気がすむんだ」
 「俺のことを、どれだけダメな人間だと思ってるのか」

これは、受験票を受け取るために中学校に行った彼が帰宅した時の言葉だ。彼は担任から侮辱の言葉を受けて帰ってきた。

受験を控えた面談の席では、同席していた母親の前で担任は男の子にこんなことも言っていた。

 「そう思うこと自体が、お門違いなんだよ」
 「そうなった時、おまえはダメだろ?」

そう言って、子どもの可能性を否定していた。

ひどい。これが教師の言葉?
この話を読み、大きなショックを受けた。

「学校に行けない」のは「ダメな人間」なんかじゃない。「学校に来い(義務教育)」と言いながら「学校に行けない」状態を作った何かが問題なんだ。決してキミのせいじゃない。

この時、私は『反省文の害』を書き始めていた。諸野脇 正さんの『なぜ、反省文に効果があると思うのか』を読み、長い間、気がかりだった問題を「人間観」の違いとして文章にしていた。

「『おまえはダメだろ?』と言った教師」と「繰り返し反省文を書かせた教師」とが重なった。どちらも子どもを否定し、追い詰めている。

子どもを否定し、追い詰めるような行為を無くしたい。どうすればいいのかを文章にしたい。

そう考えて『何回書かせても変わらない 反省文の害①』を公開した。①の文字を書き加えたのは「このままでは終わらせない」という宣言だった。

こうして書き始めた『反省文の害 』は、「まだ書けていない」「まだ書くことがある」と思って書いているうちに十回目になりました。
どれも具体的な場面を取り上げながら「『人間観』が違うと対応はどう変わるか」を書くように心がけました。

 「学校に行けない」状態を作った何かが問題なんだ。

これまでの文章が、その「何か」に迫ることができたか。
以下に、これまでの記事をその要旨とともにまとめますので、一緒に振り返って頂ければ幸いです。

■「なぜダメか、どうすればよかったか」を繰り返しても《できる》ようにはならない。〈繰り返し反省文を書かせた教師の事例〉(『反省文の害①』)

■「ダメだ、できていない」の繰り返しが人をダメにする。「いいところ、できているところ」を強化する。〈「10円の褒め言葉」の事例〉(『反省文の害②』)

■時間をかけて、小さな『できる』を認めて積み重ねていく。大きな困難ほど後回しにする。〈ASDの子どもの事例〉(『反省文の害③』)

■《やらない》ではなく《できない》でいると考えて、解決方法を探す。『できる』ところから始める。〈ASDの子どもの事例〉(『反省文の害④』)

■容量を超えた「やりなさい」が、子どもの《キャパ超え》を招き、子どもをダメにする。〈宿題でズルをした小3の私の事例〉(『反省文の害⑤』)
【事例】『残酷なやりなおし

■子どものSOSは〈問題行動〉の形で現れる。「やめなさい」と言わず「そうしなくていい状態」を作る。〈小さな問題行動としてのズルやウソの事例〉(『反省文の害⑥』)

■《子ども一人ひとりに配慮する》一斉活動のシステムを作る。それでも《一人だけできない》子が生じた時は、その子に《できる》ことを探してシステムを更新させる。〈登山活動計画の事例〉(『反省文の害⑦』)

■不登校問題① 「必要だから学校を休んでいる」という不登校の事例がある。〈辞職した教師の事例〉(『反省文の害⑧』)

■不登校問題②  システム化された「不登校支援策」が教師を追いつめる可能性がある。〈「事件」を起こした教師の事例〉(『反省文の害⑨』)

 「学校に行けない」状態を作った何かが問題なんだ。

そう考えて書き始めた『反省文の害』でしたが、書く過程で強く感じたのは「《できる》はずだ」「できて当たり前」という教師の一方的な強い思い込みです。

「《できる》はずだから、やりなさい」

学校は、この強い思い込みの上に成り立っています。
「毎日学校に来るのが当たり前」
「授業時間が45分なのは当たり前」
「2年生が九九を学習するのは当たり前」

だから、子どもの《できない》を受け入れ難いのだと考えました。
「学校に来ないのはおかしい」
「45分を我慢できないのはおかしい」
「2年生なのに九九ができないのはおかしい」

でも、子どもは個々に違います。それを疑う人はいないでしょう。

そして、気がついたことがあります。
「毎日学校に来ているのはスゴイ」
「45分を楽しくできるのはスゴイ」
「九九をできるようになるのはスゴイ」

私は、そう思って子ども達と過ごしていました。

《できる》のは当たり前ではありません。
《できる》のは当たり前ではないから《できない》ことがあります。

私は、子どもの《できない》を「この方法が合ってなかったんだな」と受け止めました。子どもを見ながら《できる》ようになる方法を考えました。ほんの少しでも、子どもが《できる》ようになることを子どもと一緒に喜ぶことができました。
いつも「子どもに合わせた教え方を試行錯誤していた」とも言えます。

「人間観」の違いは、「できて当たり前」という思い込みの有無かもしれません。

今、一生懸命に頑張っているキミへ。
キミがそういう周囲の一方的な思い込みに振り回されず、自分らしくいられることを心から願います。

これまでの文章の一部でも、誰かの役に立てますように。


※ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。コメントをくださった皆さんにも感謝申し上げます。コメントからも様々に考える機会を頂きました。noteという場所で、このような機会を得たことを幸いに思います。長いシリーズにお付き合い頂き、ありがとうございました。

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