映画エッセイ「不良と映画」第一回

第一回「イージー・ライダー」

体制が生まれ、社会規範やルールが整備されると、必ずと言っていいほど、それに反抗しようとする人が現れます。

そのような人たちを、体制側の人たちは「不良」と呼んで、自分たちのルールやモラルで縛ろうとしてきました。

しかし、不良たちはそんなものに決して屈しませんでした。彼らはあくまでも自分たちのスタイルやポリシーを貫くことにこだわったのです。

このような不毛な争いはいつの時代も世の中をうるさくしてきました。

人間の歴史が闘争の歴史としばしば言われるのは、そういうところにも原因があるのかもしれません。

我々人間は、気の遠くなるような時間をかけて闘争を繰り返し、そして、その中で、いつしか闘争そのものを記録・保存することを覚えました。

その最たる方法が映画という視覚芸術です。

エジソンがその原型を作り、リュミエール兄弟が発展させた映画は、時代や世相を映す鏡として、人間社会を取り巻く諸問題を、余すことなく描いてきました。むろん、その中には、人間の価値観の対立や相克といったシリアスなテーマも含まれていました。
 
人間の抗争は、図らずも、人間自身の開発した装置によって表現され、後々の世にまで伝えられることになったのです。

本稿では、「不良と映画」と題して、様々な不良が登場する作品を、洋の東西を問わず、エッセイ形式で紹介していきます。

記念すべき第一回は「イージー・ライダー」です。

「イージー・ライダー」は、1969年に公開された「アメリカン・ニューシネマ」の代表作です。

「アメリカン・ニューシネマ」とは、60年代後半から70年代の半ばにかけて、アメリカで見られた映画の新しいムーブメントを指します。

その作風は、どちらかと言えば、純文学的な傾向が色濃く、反抗的な若者が体制に抗って敗北するというパターンがほとんどでした。

今回、ご紹介する「イージー・ライダー」にも、反体制的な二人の若者(ピーター・フォンダとデニス・ホッパー)が登場します。

彼らは真のアメリカを求めて放浪の旅に出ますが、その行く先には真のアメリカなどはありません。

この映画が描かれた60年代後半のアメリカは、ヒッピー・ムーブメントに代表されるカウンター・カルチャーが台頭し、50年代に謳われた古き良きアメリカの欺瞞が暴かれた、変革の時代でした。アメリカの変革とは、言わば、ヒッピー世代の不良たちが戦中派の親世代に対して行った大いなる反抗と言えるでしょう。

そうした変革の波は、ベトナム反戦運動やウーマンリブ運動だけにとどまらず、映画の都ハリウッドにも波及しました。

カウンターカルチャーの台頭によって体制の嘘が暴かれたにもかかわらず、ハリウッドに巣食う老人たちは、あくまでも古き良きアメリカを象徴する映画作りにこだわり、セックスや暴力を描くことを潔しとしませんでした。

そういう老人たちに真っ向から立ち向かった不良たちが、当時の若き映画人であるところの、デニス・ホッパーやピーター・フォンダだったのです。

なるほど、この「イージー・ライダー」という作品からは、当時の若者たちが体制に対して抱いていた苛立ちや無力感がまざまざと伝わってきます。

「真のアメリカ」という幻想を追い求めた二人の不良は、やがて、嘘だらけの古いアメリカに敗れて消え去っていきます。

これは、今にして思えば、その後のアメリカを象徴するような終わり方でした。

アメリカの欺瞞を暴いたヒッピームーブメントはベトナム戦争の終結とともに衰退し、やがて、アメリカは50年代の保守的な空気を取り戻していくのです。

時代の空気を描くとともに時代の変遷をも予感させたこの作品は、若者の敗北を今に伝える記念碑的作品として後世に語り継がれることになったのでした。

不良映画を語るうえで決して外せない名作。

あなたもこの作品をご覧になって時代の空気を感じてみませんか?






 





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