マガジンのカバー画像

短編小説

31
運営しているクリエイター

#超短編小説

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑤

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑤

けれど、その後には、いつも何の足跡も残ってはいなかった。季節がうつろい、街がちがう色に染められていっても、わたしの中の季節は、死のように暗い冬を閉じ込めたままだった。母の通夜で、あの女の言ったことが、わたしの歩く道から光を遮っていたのである。

母は、「先生」と呼ばれた男の種を、胎内に孕んだ。本来なら、それは絶やされるべきはずの命だった。なのに、穢れた子は母胎から吐き出され、名前を与えられて、巡る

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」④

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」④

その日は、春の柔らかい日差しが雲間から降り注ぎ、死者を弔うにはいささか眩しすぎるくらいだった。

母は従容とした面持ちで棺に横たわっていた。質感を失った肌は、陶器のように透き通り、窓硝子を透かして入ってくる月明かりを柔らかく弾いた。この世の軛から解き放たれた死者が明るく笑っているように見え、その逆に、苦界を生きる生者が沈鬱な表情を浮かべているのはとても滑稽だった。

わたしは、生ける屍のようになっ

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」③

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」③

けれど、それは、今にして思えば、「逃げ」だった。

実際、わたしは、自分の道を歩いているように見えながら、自分を縛りつけるものから逃げていたのだ。

あの日、あの母子の話を聞いたときから、わたしの中にわきおこった疑問があった。

わたしは、ただヒロシちゃんに生かされていたのではなく、ヒロシちゃんが失った誰かの代わりに生かされていたのではなかったのか?

そして、母はそれを知っていながら、ヒロシちゃ

もっとみる
短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」②

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」②

それから時が経って、夢見がちな少女は大人の階段を上っていった。ただ、ヒロシちゃんの記憶は、季節が色褪せるようには消えてくれず、わたしの中で永遠に消えない十字架として燻り続けていた。

それは母とて同じだっただろう。

わたしが実家を出てからも、ヒロシちゃんからの仕送りは続いていた。通帳に羅列された数字は、何かの暗号のようにも乱数表のようにも見え、それを見る人間を、いたずらに不安にさせた。母は何度と

もっとみる
短編「この世のどんなものより」

短編「この世のどんなものより」

あの女から本など借りるべきではなかった。

これまでにも、ジュネやセリーヌやバタイユといったフランス人の本ばかりを借りたが、中学を出ているだけの俺には難しくて、最後まで読めたためしがなかった。

キャバ嬢の送迎をしているだけの頭の悪い俺に、どうしてこんな難しい本ばかりを貸してくれるのか、いくら考えてみてもさっぱり分からなかったが、最近になって、ようやくその理由がわかった。

最近借りたユイスマンス

もっとみる
短編「水曜日の女」

短編「水曜日の女」

私はあの男から本当の名前で呼ばれたことがない。これから先、名前で呼ばれることがあったとしても、月曜日の女や火曜日の女と間違えられそうな気がする。男にとって私は水曜日の女でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない。

水曜日になるたびに、男は私の身体を激しく求めた。密会先は熱海の湖畔にある瀟洒なコンドミニアムと決まっていた。日常の憂さを忘れて女の股ぐらに顔を埋めるには東京はあまりにも騒がしいのだ。

もっとみる
短編「花言葉は再会」

短編「花言葉は再会」

人が死んでしまった時、その事実を受け入れて前へ進むのに、大抵の人は多くの時を費やしてしまう。死んだ人が大切な人であったならば、尚のことである。

それは、無論、人間のエゴと無関係ではない。

人間というのは、皆、自分勝手に生きていて、都合の良いことはいつまでも覚えているくせに、都合の悪いことは受けつけようとしない。

私という男も、ご多聞に漏れず、そんな人間であった。

私は妻の死を受け入れなかっ

もっとみる

時代小説「剣豪将軍」

京の都に戦雲が垂れ込めつつあった。

長らく畿内の政を掌握していた三好政権は、惣領たる長慶の死によってその勢威に陰りが見えていた。これを幸いとして、13代将軍足利義輝は、各地の諸大名に働きかけて、紛争の調停を行い、あるいは、上洛を促して、将軍権威の回復に努めた。

明応の政変以降、衰運の一途を辿っていた足利将軍家は若き剣豪将軍の台頭によってふたたび威勢を取り戻すかに見えた。さりながら、天下の仕置は

もっとみる