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短編小説

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#創作小説

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑦

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」⑦

きっかけになったのは一枚の古いポートレイトだった。

紗英とふたりで実家にある母の遺品を整理していたとき、それはまるで春光を待ちわびていたかのように、わたしたちの前にあらわれた。長いこと眠っていたために色と艶が失われていても、そこに映る少女の瞳までは輝きを失っていなかった。

写真には、瀟洒な教会を背景に、祭服に身を包んだ中年の神父と口元を綻ばせて笑う頑是ない少女が映っていた。わたしたちはその少女

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短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」④

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」④

その日は、春の柔らかい日差しが雲間から降り注ぎ、死者を弔うにはいささか眩しすぎるくらいだった。

母は従容とした面持ちで棺に横たわっていた。質感を失った肌は、陶器のように透き通り、窓硝子を透かして入ってくる月明かりを柔らかく弾いた。この世の軛から解き放たれた死者が明るく笑っているように見え、その逆に、苦界を生きる生者が沈鬱な表情を浮かべているのはとても滑稽だった。

わたしは、生ける屍のようになっ

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短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」②

短編「わたしはあしながおじさんなんかいらない」②

それから時が経って、夢見がちな少女は大人の階段を上っていった。ただ、ヒロシちゃんの記憶は、季節が色褪せるようには消えてくれず、わたしの中で永遠に消えない十字架として燻り続けていた。

それは母とて同じだっただろう。

わたしが実家を出てからも、ヒロシちゃんからの仕送りは続いていた。通帳に羅列された数字は、何かの暗号のようにも乱数表のようにも見え、それを見る人間を、いたずらに不安にさせた。母は何度と

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短編「父の秘密」

短編「父の秘密」

紅茶にマドレーヌを浸すと、幼い頃の温かい記憶がふつふつとよみがえる。そんな出だしで始まる小説を、大学時代に読んだことがある。

それと同じように、母の口紅を引いたとき、がらんどうになった意識の底へ、温かい記憶が注ぎ込まれた。

世界にとっては一瞬でも、私にとっては気の遠くなるような昔の出来事。

甘美な記憶は、ほんのわずかではあるけれど、私から喪失感を拭ってくれた。

あの時の私は、混沌とした世界

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短編「この世のどんなものより」

短編「この世のどんなものより」

あの女から本など借りるべきではなかった。

これまでにも、ジュネやセリーヌやバタイユといったフランス人の本ばかりを借りたが、中学を出ているだけの俺には難しくて、最後まで読めたためしがなかった。

キャバ嬢の送迎をしているだけの頭の悪い俺に、どうしてこんな難しい本ばかりを貸してくれるのか、いくら考えてみてもさっぱり分からなかったが、最近になって、ようやくその理由がわかった。

最近借りたユイスマンス

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時代小説「剣豪将軍」

京の都に戦雲が垂れ込めつつあった。

長らく畿内の政を掌握していた三好政権は、惣領たる長慶の死によってその勢威に陰りが見えていた。これを幸いとして、13代将軍足利義輝は、各地の諸大名に働きかけて、紛争の調停を行い、あるいは、上洛を促して、将軍権威の回復に努めた。

明応の政変以降、衰運の一途を辿っていた足利将軍家は若き剣豪将軍の台頭によってふたたび威勢を取り戻すかに見えた。さりながら、天下の仕置は

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パリ左岸の夕陽⑧

パリ左岸の夕陽⑧

カフェ・ド・フロールは、1887年に創業され、戦中から戦後にかけては、実存主義者の溜まり場だった老舗カフェである。

知が花開き、研鑽の行われたその場所で、人々は機知に富んだ会話を交わし、あるいは、愛を囁やき合っていた。そういう雰囲気にあって、私たちは場違いな異邦人であり、明らかな余計者でさえあった。

それでも、私たちは自分たちの物語を完結させなければならなかった。カフェの特権的な雰囲気は、それ

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