五条悟でもないのによくぞ見抜いた。だから西洋有神論は素晴らしい
上の引用、ずいぶんと現実離れした言葉ではないでしょうか。ここに日本文化と西洋文化の違いが見えます。というのも、我々日本人(「私」でもいいけれど)は、ここまで論理を信じることができないからです。
例えば職場で部下に仕事をさせるとしたら、てっとり早く命令します。いちいち詳細を説明などせず。その方が「自分が上司だ」という高揚感があるし、職場のような組織においては命令するのが当然ですから。もしかしたら「論理的に説明だってするよ」という人がいるかもしれません。けれど、どうにも物分りの悪い部下、あるいは反抗的な部下だったらどうでしょう。それでもいちいち説明するでしょうか。その部下は意地悪く、こっちの揚げ足をとってきます。「それって本当に必要なんですか?」「どうして私がやるんですか?」と、虱潰しに理由を求めてくる。そんな者には、最終的には「いいからやれ!」の一喝でしょう。
もしも部下にさせるその仕事が大事なものであればあるほど、理屈が関与する度合いは低くなります。大事な仕事なのに、しかも早く仕上げなければならない仕事なのに、いつまでも部下が駄々をこねていて、その度に理屈で説明しなければならないとしたら、そんな部下にはもはや任せていられません。「大事な仕事でしかも時間がないのにグダグダ抜かしやがって。もういい。だったら俺がやる」となるはずです。
例えば親は、自分の子どもは特別に可愛いもの。どれだけ可愛いかというと、理性的な判断ができなくなるほどです。世間では保育園の先生や学校の先生がパワハラにあっていると訴えます。パワハラをしてくるのは幼児や児童の保護者。「どうしてウチの子どもばっかり!」とか「ウチの子どもはにそんなことをやらせて!」とか。このようなパワハラに対しては、距離をおいて眺める分には、保護者が感情的になっているように見えます。現実的に先生がすべての子どもを公平に扱うことなどできませんし、特定の子どもを特別に差別することにメリットなどないからです。差別して不利になるのは、立場のある自分の方だというのは簡単に想像がつきます。極端に自分の立場を悪くするようなことなど、先生も特段しないのではないでしょうか。先生が、すべての子どもをくまなく見れる六眼のような目を持っているのであれば話はべつでしょうが、そんなはずはない。五条悟はいないのです。集団にいくらかばかりの不公平が存在するのはしょうがないもの。どこにも漏れや忘れはあるものです。
けれど、自分の子どもが当事者だという場合にはこの限りではありません。保育園や学校で差別されているのが自分の子どもだとしたら、いじめにあって放って置かれているのが自分の可愛いこどもだとしたら、もはや黙っていられるものではない。すぐにでも保育園や学校に飛んでいって、その不定を正します。「どうして先生は何もしてくれないんだ!」「なぜ先生は黙っているんだ」と、論理そっちのけで先生に食って掛かる姿が見に浮かびます。
このように我々は、大事な場面であればあるほど論理を忘れるのです。大事なものを前に冷静で理屈人間でいられる者は、もはや血の通った存在ではありません。出勤日に「見たくて見てくて、どうしても見たくて……」な動画があれば、非論理的な理由をつけて視聴時間を確保するし、愛する人が拉致されようものなら、後先考えずに阻止しょうとする。そこに論理は不要。そこに理屈を持ち込むのは無粋です。
けれど西洋有神論者は、そんな不要に見えるものが必要なものだと見抜いたし、無粋を粋に変えてきました。
信仰は彼らにとって最も権威のある、守らなくてはならないものだったに違いありません。自分の生きがいのもっとも中心にあるもの。それがなくなれば自身の存在すら危ういようなもの。自分の存在をかけて、自分の人生をかけて、自分の命をかけて守らなくてはならないもの。それが西洋有神論者にとっての神だったはず。日本人的に考えれば、そこに理屈や論理なんて無いに等しいでしょう。
そんな阿呆な声には、「うるせーんだよ。いるからいるんだよ!」で十分にまかり通ると思います。
西洋有神論者にとって、論敵は他の神を信じている不届き者です。論敵の神は、言わば自分たちから見れば邪神。退けば自分の神を否定され、自分たちも邪神を信じるように強制される。そんな絶対に負けられない戦いの中で、感情に流されず、情緒に支配されず、冷静に選んだのが、理屈であり論理だったのです。
今現在、世界に広まっている西洋有神論は、二千年ちょっと前にごく小さい仲間内の話から始まって、全世界に広まりました。他人に自分たちの神を信じるように求め、勢力を広める中で武力を使っただろうし、暴力を振るっただろうことは容易に想像がつきます。自分たちが勢力のある側になれば尚更。つまり彼らは、理屈を使わずに従わせることも可能だったのです。理屈を使わず、論理を無視して、矛盾があっても「いいから信じるだよ!」と。理由を説明できなくても「理由なんてねえーんだよ!」と。拳で、槍で、火薬で。粗暴な手段のみで、相手を自分の側に従わせる。上司が部下に大事な仕事をさせるときのように。
が、彼らはそうはしませんでした。「ここ一番」で信じたのが論理だったのです。「神は本当にいるのか」「神がいるのなら、その神は全知全能、加えて至善なのか」「神が全知全能至善なのであればどうして我々はこんなにも不幸なのか」。その全てに対して理屈を用意してきたのです。
論理なんて、いかにも薄っぺらいもののように感じます(少なくとも私は)。いくらでも覆せるし、現実的な拘束力がないからです。論理は偽悪的に使えば、際限なく反論することができます。例えば
と、いくらでも反論できる。
理屈には、現実的な拘束力もありません。
このように議論で自分が劣勢になったならば、或いはなりそうならば、議論自体を反故にしてしまえばいい。わざわざ自身の不利をなげうってまで議論に付き合ってやる義理はないのですから。
けれど西洋有神論は、こんな薄っぺらい論理を信じてきました。いくらでも覆せるし、現実的に拘束力のない、脆弱な論理を、最後の砦としたのです。「誰でも最後は論理に行き着く」「いくら粗暴な手段に出ても、それは虚構でしかない。論理にこそ人はついてくる」と信じ、事実この論理でもって世界に自身を広めました。
このように、我々日本人の感覚(しつこいけれど「私」でもいいですが)からすると論理など、なんの価値もないように思えます。けれど西洋有神論者は論理を極限まで高めたし、今まで論理を信じ抜いてきました。こんな華奢な論理をこれほどまで威厳のあるものに成長させたのは根気のいることだっただろうし、論理が実は頼りがいのあるものだと気づいたその審美眼は称賛に値します。
だから西洋有神論は素晴らしいのです。
面白かったです。特に「第Ⅲ部 神の存在論証」の宇宙論的論証。「無限は存在しない。なぜなら、この世界が現実にあるから」という理屈がよかったです。
本書では、類似による議論を使ってこれを論証しています。
ここから次のことが確実に言えます。もしも、この連鎖が無限に続くならば、あなたはいつまでたっても決して宗教学の教科書を太郎から借りることができない。つまり、もしもあなたが現実に宗教学の教科書を太郎から借りられたのなら、この連鎖が無限に続いていなかったことになります。
この世界(宇宙)についても同じことが言えるのです。もしも世界の存在原因を溯っていって、それが無限に続いているとしたら、この世界は存在していません。けれど現実にこの世界は存在している。なので前提は否定される。存在原因は無限に遡行できず、どこかに神と呼ばれるような究極の原因「第一原因」が存在するのです。
宗教学の教科書を現実に借りられたように、世界が現実に存在するならば、第一原因がどこかにあるのです。
楽しく読むことができる本でした。