女は男で変わるんだ 10歳の私が母から学んだこと
今日で100回目の記事を更新します。
100回目に自己紹介をしようと思ったんですが、どうやって書き始めるか、何を伝えるのか、どうやって表現するのかがわかりませんでした。
本当はね、もっと最初の方に書きたかったんですが、自己紹介の書き方がわからなかったのと、書きたいことがいっぱいありすぎてまとめ方がわからなかったんです。
今日で100回目。
少しは文章を書くのに慣れてきたので、やっと、自分を表現する決心がつきました。
今日の記事は自己紹介というよりも、自叙伝という方がいいのかもしれません。そして、長くなります。約10000字越えますので、時間がある方のみご覧ください。
すでに、私の記事を読んでいただいてる方は、色々とご存じなことも多いですが、初めての方と自分を振り返るために今日は書いていきたいと思います。
では、初めまして。モンブランです。
私は、山形で生まれた。
私が生後1か月の時に母と父が離婚した。原因は父の不倫だ。父は整骨院を経営していた。父はその整骨院の看護婦さんと不倫をしていた。
母は実家の高知に出戻った。
私は父がいない家庭で育った。
母は仕事が忙しかったので、祖母の家で暮らしていた。祖母はとても強かった。家族の中で、1番の存在感を出していた。祖父は耳が聞こえなかった。
私はこの祖母と祖父が大好きだった。アパートで母と二人で暮らすより、私は祖母の家で暮らすことを選んだ。
小学生の頃は、体が弱かったせいでいじめられていた。
いじめと言ってもからかう程度。それでも私は、心が痛かった。いじめっ子に立ち向かう勇気がある子供でもなかった。ただ、耐えるしかできなかった。
それに、私は、何も特別な能力や人に自慢できるものは何も持っていなかった。
自転車が乗れるようになったのは、小学校2年生だった。
運動神経もいたって普通。勉強も普通。
その私が変わったきっかけがある。それは、犬を飼ったことだ。母の職場の人の犬が子供を産んだので、その子犬をもらった。
私は新しい友達ができたみたいでとても嬉しかった。
毎日散歩をするたびに体力がついて走るのが早くなった。毎日一緒に犬の散歩をする学校の友達とも仲良くなった。
それからの私は、学校でも楽しく過ごせるようになった。あの運動神経が悪かった私が市の短距離の陸上大会に選ばれたこともあった。思い出に残っているのは、腕を骨折して、包帯を巻いたその腕で大会に出場したこともあった。私は走るのが大好きだった。
私たちの遊びは、夜ご飯のイカの刺身をキープして、そのイカに紐をつけてザリガニ釣りをしたり、海にあるテトラポットの中を秘密基地とっていってお菓子や漫画を持っていったりした。他にもみんなで川に水遊びにいったり、バッタやトンボ、自動販売機の光に集まってきたカブトムシやクワガタを捕まえたりそんな遊びをしていた。
そんな頃、母に彼氏ができた。私が10歳の頃だった。母と同じ職場の人でこれから一緒に生きていこうと思っている人だと紹介された。
私は、母がその人に取られるかもしれないという不安と母の幸せを願う気持ちの両方を持っていた。
一人で子供を育てていくのは、大変だっただろう。
話し相手、愚痴を聞いてくれる人も必要だったに違いない。
私は、いずれ母の元から去っていく。一人になった母を心配せずにはいられない。だから、一人で生きていくよりは、誰かと生きていく方が楽だし楽しいと思う。私に反対する権利なんてない。母の人生だ。それ以来、母は優しくなった。自分一人で抱えてた荷物を半分持ってもらうことによって余裕ができたのだろう。10歳の私が女は男で変わると学んだ瞬間だった。
こんな田舎では、クラス替えも、転校生も来ない。中学生になってもほぼ同じ顔ぶれ。
しかし中学生になったら、女子は少しづつ女らしくなっていく。クラスで170センチあるボス的な女子が先生に恋をしたので、その頃のクラスは平和だった。恋をする前は嫌なことがあったら、回りにあたり、先生にあたり、私たちはひやひやしながら、授業を受けていた。
また女は男で変わるんだーと中学生で気づいた夏だった。
中学三年生15歳の時に、私は、鼻血が止まらず救急車に初めて乗った。しかも1日に2回。鼻からも口からも血が噴き出していた。
病院までは、車で30分くらいかかる。それが、救急車では、15分くらいだった。午前中に運ばれて手当をしてもらって家に帰った。その日の夜、また出血して止まらなかったので、また救急車で運ばれた。それから、私は2~3か月入院をした。
原因を調べるために。
入院してどれくらい経ったのだろう?覚えていないが、夜トイレに行きたくなって一人でトイレに行った。手を洗って病室に戻ろうとしたとたん、向こうから母が歩いてくるのが見えた。その瞬間視界がゆっくり暗くなっていくのがわかった。それから、気がついたのは、数日たってからだった。
私の葬式の話をしているのが、聞こえた。
私は、まだ生きている。これからしたいこといっぱいあるのに、こんなところで死ぬなんて…私は生きたい。
生きたいよー!!
と心の中で叫んだ。
それから、また深い眠りについた。
目を開けた瞬間、母と祖母の顔が視界に入ってきた。
私、生きていた。
敗血症という感染症だった。
それから、また検査、検査、検査の連続。
高知医大の助教授まで訪ねて、はるばる2時間半かけて検査に行った。
そこで、私の病名が判明した。
ヴォンビルブランド症という、血小板αが働かない。だから、血を固めることができず、出血したら止まらないという病気だった。当時この病気に薬はなく、出血しない限り、普通の暮らしができるというなんとまあ不思議な病気だった。
大量出血したら血が止まらないけど、出血さえしなければ健康な人と変わらない。
もし、大量出血したらどうなるの?
この頃は何も対処法がなかったけど、今は血を固める薬が開発されていて、これを投与すると、血が止まるらしい。
オーストラリアの病院でこの薬があることを知った。
高校の受験勉強なんてしていない。まずは、退院を目標に。入院中母は病室の固いスペアマットで寝ていた。病院代もかかるのに仕事もせず、ずっと私のそばにいてくれた。
高校に入ってからは、部活の弓道や新しい友達ができて、楽しかった。小、中学校はクラスが1つしかなかったけど、高校は4クラスあった。
今でも友達と呼べる友達ができた。
そして、私が美容師になるきっかけを作ってくれた友達にも出会うことができた。
高校は車で30分かかる。バスで通っていた時もあるけど、よく母に送ってもらっていた。お弁当も毎日作ってくれて、学校まで送ってくれる。それから母は仕事に行っていて、本当にお世話になった。母にとっては長い長い3年間だっただろう。月並みな言葉しか言えないが、お母さん、ありがとう。
高校を卒業して、美容師になることを決めて、大阪にでた。
最初はホームシックで母や祖母と電話で話す度、涙があふれてくる。涙声にならないように、必死でこらえた。
私は、寮に入った。2人部屋だった。
いつも家族で一緒に晩ご飯を食べていたのに、冷たい弁当を一人で食べていると、また、涙があふれてきた。
しかし、美容師になると決めたのは、他の誰でもなく、私だった。
毎日学校に通った。色んな友達も増えた。
英会話に通うためにバイトもした。
初めての彼氏もできた。
美容学校時代は、コンテストによく出場していた。
きっかけは覚えていないが、多分校内コンテストがあってみんな同じ時期に始めたのに、こんなにも上手な人がいるんだーと思ったことかな?
そして、校内から校外のコンテストにでたら、何かがおかしい。これは人ではなく、機械が作ったのではないかという、とても正確でキレイ作品がたくさんあった。
それから、私は、その機械で作ったような作品にどうやって近づけるかを研究した。この頃、コンテスト仲間がいてこの友達と朝から晩まで練習していた。
色んなコンテストに出場した。出場すると必ず賞をもらった。小さな大会では、優勝したこともある。
そして、学校一番上手だったあの子。
彼氏ができて、そっちに夢中。
この時も私は、女は男で変わるんだーって思った。
2年が経ち、卒業前に美容師国家試験がある。
2月に実技試験。80点が合格ライン。しかし、3月に筆記試験があってこれが終わってからじゃないと、合否がでない。
2月に実技試験が終わった後、学校は行っても行かなくてもいい。1か月後の3月の筆記試験まで、筆記の勉強をする時間に当てる。しかし、私は、この筆記試験までの1か月間の間にオーストラリアに行く計画を立てた。
担任の先生に相談した。
担任の先生は、過去に海外協力青年隊に参加していたことがあって、髪を切るのを現地の人に教えていた。先生は反対した。もし、「筆記試験で落ちたら今まで頑張ってきた意味がない」と言った。私は、「美容師になってからだと忙しすぎて海外なんか行けない。だから今なんだ。」先生は、「筆記試験が終わってからでも遅くはない。」私は、「筆記試験が終わった後だったら、遅いんだと。」言った。なぜなら、筆記試験が終わったら、すぐに就職するからだ。試験が3月の半ばで、卒業式は末に合って、4月から就職することになっていたからだ。
全然ひかない私に、先生はこう言った。
「先生ではなく人としては応援する。」
私はこの言葉が聞きたかったのかもしれない。
そして、私は、先生に「筆記試験は絶対合格するんで大丈夫です。オーストラリアに行くので、明日から学校は休みます。」といってオーストラリアのチケットを早速取りに行った。
私、筆記の授業毎回ちゃんと出てたし、過去問でも90点以上は常にとれていたし、5教科すべて理解していた。不安だったら、こんな時に海外なんていかない。私は100%合格する自信があった。
だから、私はオーストラリアに出発した。
初めて旅行会社に行ってオーストラリアのチケットを取ってもらった。
その頃、バイトで知り合った子がブリスベンの学校に通っていたので、その子に会いに行った。
どこに泊まったのかも何をしたかも、あんまり覚えていないが、はっきりと覚えていることがある。
それは、オーストラリアに着いてすぐ英語が聞こえるが、この英語は私が知っている英語ではなかった。
英会話1年ぐらい通っていたが、オーストラリアの英語は全然聞き取れなかった。
友達が学校の友達とご飯に行くので一緒に連れて行ってもらったが、みんなの会話がさっぱりわからない。
私は何のために英会話を習っていたんだろう?
私は、1週間~10日ブリスベンに滞在した。私が日本に帰る日、また友達が色んな友達を誘ってご飯を食べに行った。
そこで、私にしゃべりかけてくれる人がいた。私は、しゃべることができなかったけど、その人の言っていることが少し、理解できた。1週間で私の耳は英語に慣れてきていた。
たった1週間で英語が少し聞き取れるようになった。
1週間で聞き取れるようになった事実をふまえ、もし、1年ここにいたら、もっと英語が理解できるんじゃないかという期待をもって私は、日本に帰った。
帰ってきてすぐに筆記試験があった。予想通りほとんどできた。
結果はもちろん合格。私は美容師資格をゲットした。
それから、卒業式があった。私は卒業生代表として、答辞を読むことになった。高知から母と父と祖母が来てくれた。私が住んでいるところに両親が訪ねてきたのはこれが最後だった。卒業式、引っ越し代でお金がかかり、私は、スーツで卒業式に出た。みんな豪華な袴や着物を着ていたが、私はリクルートスーツだった。
私は、大阪の美容室に就職をした。そして、心斎橋で働いていた。
下積み時代を経てやっとスタイリストになった。
先輩に言われて今も心に残っている言葉がある。
「おれのことをもっとスキになれ」
この先輩のことは嫌いだった。私が働いていたお店は自分がした技術に対して給料のバックがある。シャンプーしたらシャンプーの欄に自分の番号を書く。私は47番だった。シャンプーは一人しか書く場所がなかったけど、ブローは2つ書く場所がある。私が書くときはこの先輩の番号と私の番号を書いていた。しかし、先輩が書くときは自分の番号しか書かない。
新人がドライヤーを持って風を髪の毛にあてただけは、その先輩の中では、ブローと呼ばないらしい。
だから、この先輩と一緒に働きたくなったけど、同じチームになってしまった。1人のスタイリストに2人のアシスタントがつく。私とその先輩は同じスタイリストについた。
きっと私がキライなことを知っていたんだろう。その先輩が言ってきた。「俺と一緒に働くからには、俺のことをスキになって」と。私はその先輩のいいところを見ようと努力した。嫌なとこもたくさんあるけど、私はその先輩のいいところを探した。そして、色々聞いた。先輩は色々と教えてくれた。カラーで失敗した時助けてくれた。パーマで失敗した時も助けてくれた。そして、いいところを探すうちにその先輩を美容師として、尊敬していた。人としては、今でも苦手だが、美容師としては立派な先輩だった。
そして、その時ついたスタイリストは旦那の地元、石川県で美容師をしている。この前に日本に帰ったときに、お店にワインを持ってあいさつに行った。結婚式に来てくれた以来、約8、9年ぶりに会った。私が辞めたときのままで全然変わっていなかった。美容師って本当に歳とらない。しかも、そのスタイリストの子供の名前と私の子供の名前が一緒だった。
同期は100人ぐらいいた。3年後同期はたった20人になった。
その頃カリスマ美容師と呼ばれる人がいた。そのカリスマ美容師と話す機会があり、「1番になりたいなら、辞めないこと」と私にアドバイスをしてくれた。その時私は、同期の中で売り上げが2番目だった。1番の子は別の店舗で働いていた。いつもヒョウ柄をファッショに取り入れるのが彼女のスタイルだった。私は彼女ほど、ヒョウ柄が似合う人を知らない。しかし、彼女は辞めた。そして、私は1番になった。繰り上げ1位。そういうことかと私は納得した。彼女を追い抜くのではなく、彼女が辞めたせいで私は1番になった。これが現実。辞めたら、そこで終わり。
私はこのお店で美容師になった。このお店が私を育ててくれた。色んな思い出がたくさんつまっているお店。
今も同期が2~3人働いている。
私にとって大阪の思いではすべてこのお店に詰まっている。
憧れた都会生活、キラキラ生活を私は謳歌していた。
しかし、美容師としては、
どうすれば自分のお客さんが増えるのか?
どうすれば、売り上げがあがるのか?
同期の子と色々考えたり、話をしたりした。
若かった私たちは何でもできた。怖いものなんか何もなかった。
本当に一生懸命、先輩たちのような美容師になるために頑張った。
他にもこんな思い出がある。
日曜日の夜、仕事が終わった後、同期の子と2人でガールズバーに行って働いていたこともあった。ガールズバーのお客さんを心斎橋の美容室の店の前で見かけて会社にバレたらヤバいなーと言って3~4回行って辞めた。
仕事が終わって家に帰る途中に宗右衛門町がある。
髪の毛つんつんのホストたち。
最初はキラキラして見えたが、仲良くなるうちに大変な仕事してるなーと思った。
仕事帰りが、私たちの仕事始まりだ。べろんべろんの状態でやってくる。セット面の椅子に座るなり、爆睡。そんな人をたくさん見てきた。
そんな時、お店でヘアーショーをすることになった。モデルを探すのは一苦労。しかし、私には、ホストのお客さんがたくさんいたので、その中から1番話しやすくて、背が高い人にヘアーショーのモデルになってほしいとお願いをした。するとその人は快くOKしてくれた。
私のチームだけメンズモデル。エクステをたくさんつけて、いかにもヘアーショーにふさわしい作品を作った。最後は来てたシャツを脱ぎ捨てる。
背中には、ボディーアート描いてもらった。
ヘアーショーは無事終了した。
やっとゆっくり眠れる。
しかし、なんだか寂しい。
ヘアーショーまでの間、ウォーキングや髪型の練習として、モデルをお店に呼んでいた。
毎日一緒だった。
気づいたら、私はそのホストを好きになっていた。
お店にバレたらたぶん辞めさせられる。そんな状態で始まった恋。
外では会えない。家か個室のレストラン。
レストランに行くのも家から店の前までタクシー。ずっと自転車で通っていた私からしたら、めっちゃ贅沢な移動手段だった。
そして、どこに行くにもサングラスに帽子にマスク。有名人並みの変装。
楽しかった。
でもそんな恋は長く続かなった。
私はしんどくなり、自分からさよならを言った。
私はまた美容に打ち込んだ。
ニューヨークでフォト撮影があって、お店の代表として選ばれて現地のモデルを使ってストリートで撮影をした。
他にも、ドイツのカラーのメーカーの視察や上海コレクションのメイクに参加した。そうやって私が海外で活躍できるのは、会社のおかげ。しかし、私はこの守られた壁から出て一人で勝負をしたかった。
色々と準備をして、25歳の時に私は日本を出た。
オーストラリアに来て、またホームシックになってしまった。
海外で美容師をするという夢のためにお金を貯めたのに、日本が恋しくて、日本に戻りたくて、日本に帰りたかった。
夢は叶った。
海外(オーストラリア)で美容師として働くことができた。
1年いる予定だったけど、もう帰ろう。8月に来たから、来年には日本に返ろう。そうだ、チケット取りに行こうと。
しかし、状況が変わった。
夢を叶えてキラキラした私ではなく、来てすぐに、日本に帰りたいとわがままをいう子供のような私に、今の旦那が言ってくれた言葉。
「楽しくなるから。俺が楽しくさせるから。」
その言葉を信じて、私は残った。
「嘘やったら、おぼえとけよ」と心のどこかで思いながら、この言葉に救われた。信じてみようと思った。
女は男で変わる。
ということを私はすでに学んでいた。
この人と一緒にいようと思った。それから、私たちは結婚をして、子供ができて父と母になった。
第一子の時は、旦那が予定日から1週間休みを取ってくれた。しかし、5日遅れて長男が生まれた。陣痛が来ず、陣痛促進剤を投与された。痛みに耐えられず、ハッピーガスというのを吸った。全然ハッピーにならなかった。そんな私を見かねたナースがモルヒネをすすめた。私は、モルヒネを太ももに打った。痛みは少しマシになったが、なかなか生まれてこなかった。陣痛が始まって8~10時間後に長男が生まれた。
しかし、旦那の休みは1週間しかない。病院に2日入院し、家に帰ってきたら旦那は明日から仕事だ。少し無理を言って次の日を休みにしてもらった。
旦那が仕事に行った後、私は孤独におびえた。この小さな命を一人で育てられるか不安で不安でしょうがなかった。
実家の母が来てくれるはずもなく、義理の母が来てくれる予定もなく、私たちは2人で頑張った。
出産した病院でも生まれた日はぐっすり寝ていたが、次の日から泣くようになった。3人部屋で同室の人のことも考えると、抱っこしないわけにはいかなかった。出産した次の日の夜から生まれたばかりの子供を抱いて病院の中をうろうろした。夜中に病院の廊下を歩くママなんていなかった。
私は一人で病院の中を歩いた。
やっと生まれてあの痛みから解放されたと思ったら、実はまだスタート地点にさえ立っていなかったのだ。生み終わったと思ったら、そこが始まりだった。
最初の育児は本当に大変だった。右も左もわからず、何もかもが初めてで、熱が出るたび、湿疹が出るたび、私たちは振り回された。
可愛いと思ったのは、いつ頃だろう?
産後うつと戦いながら、私は一生懸命赤ちゃんのお世話をした。
独身時代は頑張れば結果もでるし、何とかなった。しかし、育児はこれに当てはまらなかった。
長男が1歳の時、2人目の妊娠が発覚した。お酒を解禁したのは、たった1週間。それから、また妊婦生活が始まった。
この頃は旦那の働いているお店の近くに引っ越したため、孤独感を感じることはなくなった。もし、何かあっても車で3分で駆けつけてくれる。そんな安心感が私のストレスを減らしてくれた。
2人目も予定日から5日遅れに生まれた。旦那は1人目の時の教訓を生かし、陣痛が始まってから、1週間休みをとると決めていた。
予定日から4日後、その日の晩ご飯はすき焼きだった。
すき焼きを食べ終わった後、お腹が痛くなった。きっと生玉子と食べ過ぎが原因だと思っていたが、痛みは一向に収まる気配がなかった。
これは陣痛だ。そう思って私は、すぐに歯を磨いてベッドに行って寝る準備をした。陣痛が弱い間に寝ておかないと痛くなってからでは眠れないことを知っていたからだ。朝5時ごろ、我慢できない痛みが襲ってきた。
旦那が病院に電話をした。陣痛は5分おきに来ていた。
病院まで車で20分。陣痛は車の中で4回きた。
病院に着いた。私は痛さで、病院の玄関の前でのたうち回った。そこにナースが車いすを持ってきてくれた。私は車いすに乗った瞬間破水した。
そのまま、分娩室に運ばれて、5分もしないうちに2人目が生まれた。
そして、私は、自分の足で歩いて、病室まで行った。
旦那が着替えを取りに行くと言って家に帰った。シェアメイトに長男のお世話を頼んでいたのもあり、それも気になっていたと思う。
病室で私は、次男と2人きりになった。
トイレに行きたくなって、トイレに行って水を流そうとしたら、そこは血だらけだった。
これが普通なのか?それとも異常なのか?
私にはわからない。だから、ナースコールを押した。
するとナースが来てくれて、ナースは私の血をみるなり、すべてを理解し、ドクター読んでくるから、ちょっと待っててねと言い残す前に私は、気を失った。
人生で2回目も気を失った。
この時は、多分、数時間だった。それにドクターも私の病気を知っていて、もしものことを考えて準備をしてくれていた。
旦那は病院から、私が気を失っていると電話がかかってきてすぐに病院にむかっていた。
私は、また夢を見ていた。
長男を怒っている私。なんでもっと優しくしてあげられなかったんだろう?
このまま死んでしまったら、長男に申し訳がない。
もう一回だけ、もう一回だけでいいから、次会ったらもう怒らないから...
そう思って目を開けると、私の視界に7~8人の知らないドクターの顔が見えた。その中に旦那の顔もあった。私はすべてを把握した。生きててよかった。そして、私はまた深い眠り着いた。
私は、長男を産んだ時より、3日間長く入院をした。5泊して、家に帰った。待ちわびた長男に会った。
最初は優しくできたが、だんだんと、イライラしてきてやっぱり怒ってしまう。人間って勝手だなーと思った。しかし、イライラするのは、生きてる証拠、元気な証拠だと開き直った。
それからは、あまりにも時が過ぎるのが早すぎて覚えていない。
ブリスベンからメルボルンに引っ越してきて、家族も5人に増えた。
次男の出産後、気を失ったにもかかわらず、私は3人目を妊娠した。
こりてないと言えばこりてないのかもしれない。
しかし、私にとっては意識を失うということは、どうってことなかった出来事かもしれない。意識を失ってもまた復活した。
生命力強いのか弱いのかわからないけど、私は生きている。
そして、3人目もまた予定日から5日遅れで生まれてきた。
さすがに3人目はこの日に生まれてくるのがわかった。99%。
旦那は予定日の5日後から2週間休みを取ってくれた。
案の定本当の予定日の前日に破水した。3人目は何事もなく生まれてきた。
私は次の日に退院した。
3人目はアトピー、アレルギー持ちで生まれてきた。
一時は本当に顔が湿疹ですごかった。顔から汁が噴き出していた。表皮がなかった。ジュクジュクしていて、かきむしって、血がでる。
そんな悪循環が半年続いた。
薬で良くなったが、薬をやめるとまた悪化した。実家の高知にある海洋深層水のプールに毎日連れて行った。
すると、肌はみるみる改善していった。
メルボルンに戻ってまた悪化したが、前ほどではなかった。
最近では薬を塗らなくても肌の状態がいい日が続いている。悪化すると、薬に頼ることもあるが、成長ととに良くなってきている。
外国で暮らすというのは、色んな壁にぶち当たる。それでも2人で乗り越えた来た。英語の壁も最初は、富士山の山頂ほど、高くそびえていた。
しかし、13年も住んでいると、少しづつ壁は低くなってきた。
それとも私たちがレベルアップしているのか?
どちらでもいい。
最近ではオーストラリア人化してきている。
どこで住むかではなく、誰と住むか。
私も男で人生が変わった女の一人である。
そして、まだ、私のストーリーは続いている。
最後まで読んでくれて本当にありがとうございました。