祖父の70年間インタビュー
たまたま昼飯は祖父と2人だけだった。
今日の農作業は?から始まった会話は意外に続いて、結局1時間近く聞いてしまった。
おじいちゃんはどんな70年間を送ったのか?
せっかく聞いたんだもの、書き留めておくことにした。
家を継ぐ資格のない子供
祖父は厳格な家に育った。
いろりで火に一番近いのは父親。
父親の魚は大2匹、子供は小さな魚1匹。
少し気を抜いて横になれば『このクソでち(ガキ)』と、キセルで頭を叩かれる。
中でも一番記憶に残っている父親の言葉。
『お前はこの家に住めんのやさかい、いつかは出てくんやぞ』
三人兄弟の末っ子だった祖父は、家を継ぐ資格はない。
婿養子として外に出されることが決まっていた。
祖父の父は決まって末っ子の祖父にばかり言いつけをしていた。
『おい、タバコ買うてこい』
夜8時過ぎ、街灯も何もない時代。
祖父は自分より背の高いススキの間を走り、泣きながらタバコを買いに走ったそうだ。
22歳で婿養子に『暫くは戸籍に入れてもらえんかった』
22歳の時、祖父は当時19歳の祖母と結婚し、婿養子になった。
祖母は6人兄弟だったが、祖母以外はすべて病で死去していた。
不治の病ではない。
祖母の祖母、私からすればひいひいばあちゃんにあたる人物「タカ」が、子供を病院に行かせなかったのだ。
『よそ者は二階へ上がるな』
タカからの罵りを受けながらも、祖父は懸命に畑を耕し、コメを育てた。
タカの夫は体が弱く、戦争にも行けず会社勤めをしていた。その代役になったのが祖父だった。
ムラ社会の中で、当時の婿養子への対応は冷たかった。
取り決めをしたはずの田んぼは、隣人が勝手に削り土地を増やしていった。
村の集まりでは一番下座に座り、酒の燗つけから皿洗いまでこなした。
汗水たらして働き、懸命に立てた一軒家には『おめでとう』の一言もなかった。
『人の人生は業で決まっている』だからみんな平等である
これだけ冷遇されながら、どうやってここまでモチベーションを保ってきたのか?
祖父曰く、それは『人の人生は業で決まること』と『親への感謝』を忘れなかったから。
誰も好きで意地悪になったり、病気になったりするものではない。
それは「そうなる」とその人の人生において決まっていた「業」であり、そうなる以上従うしかない。
だから、そうなった人に罪はないし、恨んだり責めたりするものではない。
人は努力すればたいていのことは乗り越えられるが、病だけは別だ。
自分が80数年生きていて一度も大病しなかったのは、親が丈夫な体に生んでくれたおかげだ。
だから、毎月ある命日には先祖に感謝の気持ちをもって参る。
どちらもとてもクラシックな、「古めかしい」「非科学的な」考えではある。
祖父はその点も承知していた。今の時代にはそぐわない。
だけど自分はこうして育てられてきた以上、こうありたいという意思がある。
若人の話の道理も分かるが、自分はこうやって死んでいきたい。
とのことだった。
全てには意味がある
私の実家には、大きな灯篭が2つもある。
なぜこんな不要なものが?
そう思っていたが、祖父にとってそれは「成功の証」だった。
どうだ、ここでやってやったぞ。
という宣言を、口には出さずもので示してやった。
そういう具合らしい。
おとなしいと思っていた祖父だが、意外と思い切りいいこともするんだと思った。
考えてみれば、祖父がこの家に婿養子として来てから成した数々の決断がなければ私はここにはいない。
縄縫いの丁稚奉公(でっちぼうこう)に出る
パン屋であんこ練りに精を出す
田んぼを一枚売り払って息子(私の父)にカセットデッキを買う
そう思うと、祖父の行動のすべてには意味があったのだと思う。
70年という年月は私にはまだまだ未知の領域だけど、その奥深さを垣間見れた気がする。