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【読書感想文】「ゲーテはすべてを言った」外部化された思索を内部化するまで

第172回芥川賞を受賞した安堂ホセ「デートピア」/鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」。両作には意外な共通点がある。まず、ひとつめはスケールがグローバルなところにある。大学時代、小説家であるリービ英雄のゼミで2年間、文学の研究をしていた。その中で、彼は「最近の芥川賞はスケールが小さすぎる」とボヤいていた。自分の専門は映画なので、熱心に芥川賞を追っているわけではないが「火花」「コンビニ人間」「推し、燃ゆ」と受賞作品は狭い領域での話が多い気がした。ゼミで扱った李良枝「由煕」があまりに衝撃的で、普遍的で、グローバルな内容だっただけに彼の言葉は長らく私の中に清掃されていない浴室の黒カビがごとくへばり付いていた。

しかし、今回の受賞作2冊を読んでみたところ、どちらもスケールが大きい内容となっており、芥川賞の歴史を語る中で大きな転換期であろうと感じた。

ふたつめは、どちらも映画を扱っているところにある。安堂ホセに関しては「ジャクソンひとり」にて『君の名は。』批判を行っているかつ、インタビューの中でアラン・J・パクラ作品(『パララックス・ビュー』『大統領の陰謀』)が好きだと明言しているシネフィルなのだが、鈴木結生もまた相当に映画好きでなければ扱えないであろう引用を「ゲーテはすべてを言った」で行っていたのである。


「デートピア」に関しては別の記事で扱ったので、今回は「ゲーテはすべてを言った」について書いていく。

本作は、ゲーテ研究者である博把統一がゲーテの言葉を巡り探求してきた轍を娘婿である「私」が小説の形態としてまとめていくと明言しているところから始まる。博把統一が研究者としてゲーテの言葉を追う様を別人を通し、かつその構造をメタ的に表現する。まさしく「ゲーテはすべてを言ったのか?」といった問いに応えるための環境をわずか5ページで整えてから物語は始まるのだ。本作は、プルーストよろしく膨大な引用によって構成される作品で、一歩間違えれば「知識のひけらかし」「スノッブだ」と罵声を浴びせられ、そのハイコンテクスト差から読者にそっぽを向かれてしまいそうな内容ではあるが、意外にも読みやすい。理由として、引用は反復される上に重要な理論は定義として事前に提示されるからである。なによりも、最初の定義で重要な2つの理論が示されていることが大きい。

われわれには、感じたこと、観察したこと、考えたこと、経験したこと、空想したこと、理性的なこと、できる限り直接に一致した言葉を見出そうとする、避けがたい日々新たな、根本的に真面目な努力がある。(『箴言と省察』三八八)

鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」より引用

自然界においては、色彩の全体性を具現しているような普遍的現象は、決して見ることはできない。完璧な美しさに満ちたこのような現象を見せてくれるのは実験である。しかし、この完全な色彩現象が円環をなしていると理解するためには自分で紙に顔料を塗ってみるのが一番よい。(『色彩論』教示編八一五)

鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」より引用

どちらの言葉も、膨大な情報の中から本質的なものを見出そうとする人間心理を捉えている。統一はドイツ・イェーナに遊学していた際、下宿先にいた画学生ヨハンからドイツ文化を教わる。ドイツ人は、名言を引用する際、誰が言ったか分からなかったら「ゲーテ曰く」とつけてお茶を濁すとのこと。その理由は簡単、「ゲーテはすべてを言った」から。このジョークをドイツ時代にたびたび使用することとなるのだが、ヨハン独自のものだったのではと疑惑を抱くようになる。その後、ゲーテ研究者になった統一。様々な人との会話の中でゲーテの名言が引用されるのだが「それは果たしてゲーテの名言なのか」「自分が知らないだけなのか」といったことを考える機会が多くなってきた。そんなある日、彼は全く知らない彼の名言と出会う。

Love does not confuse everything, but mixes. -Goethe

タグに書かれたこの言葉に惹かれた彼の冒険が始まった。

本作は、名言と個人との関係性を慧眼なまでに描きこんでいる。統一の憧れの存在である然紀典が名言を以下3パターンに分類する。

1.要約型
2.伝承型
3.仮託型

要約型とは、あまりにも長い言葉をコンパクトにまとめたものである。たとえば、テルトゥリアヌスの言葉「神の子は死んだ。これはどうしても信じなければならない。何故ならそれは無意味だから。そして彼は墓に葬られ復活した。この事実は確かだ。何故ならそれは不可能だから。」が長すぎるので「不条理なるがゆえに我信ず」となって流布されたことが挙げられる。この問題点は、元の文脈が単純化されてしまい、時に意味が逆転してしまうことにあると然は語る。

伝承型とは、クザーヌスの「神の照覧あるが故に我在るなり」をデカルトが反転させて「我思う故に我あり」としたように、名言が継承されていくパターンを示している。

仮託型は、マリー・アントワネットが言っていないにもかかわらず「パンが無ければケーキを食べればいいじゃない」が彼女の名言と結びついているように、名言が歴史上の人物に結びついてしまっているパターンである。

分類した上で「名言とはなにか?」と考えた際に複雑な理論を抽象化する技術であることがわかってくる。我々は、複雑なロジックがわからずとも車を運転できたりスマホでSNSを見たり買い物をしたりできる。これらは複雑さを「車」「スマホ」と抽象化し扱えるようにしたからだ。具体的すぎると人間はその具体的なものを解釈するのに脳内リソースが奪われてしまう。大衆に流布するシステムとは、抽象化されたものなのである。このことを言語レベルに落とし込むと、人間心理や社会にある複雑さを表現する際の道具として「名言」が位置づけられているといえる。原文や文脈、その言葉が持つ複雑な理論を100%理解していなくても「巨人の肩の上に乗ったつもりでやってみましょう!」といえば、先人の技術を使って新しいことに挑戦するんだなといったことが相手に伝わるわけなのだ。

一方で、然が語るように、「名言」は便利な一方で意味が歪められてしまったり、ウソが混じっていたりするのも確かである。そして、「ゲーテはすべてを言った」は外部化された思考を内面へ落とし込んでいく重要性を語っているのである。

統一は、「ゲーテの言葉」に執着しつつも本質は、誰が「ゲーテの言葉」を言ったのかに執着しているところにある。それは、TV番組「眠られぬ夜のために」の収録でタレントと「ファウスト」について議論する場面を始めとし、ゲーテに詳しくないであろう人たちが語る「ゲーテの言葉」よりヨハンや然が語る「ゲーテの言葉」に惹かれる様、つまり名言を通じて当人の裏にある理論を読み解くところに興味があるところから明白であろう。

ところが、ある事件によりこの名言の分類に関する論が崩壊の危機に瀕する。それにより、仮託型としてのゲーテの言葉に傾倒していた統一の実存が問われる。統一自身はジャムのように一緒くたに事物が溶けあったジャム的状況よりも、事物が個々の具象性を保ったままひとつの有機体を形成したサラダ的な思想を長らくメディアで掲げており「サラダおじさん」として揶揄されていたが、気づかぬうちに「ジャムおじさん」になっていたことが露呈するのである。

「ゲーテはすべてを言った」は23歳とは思えぬ、老境の悟りともいえる重厚な議論と、それに裏打ちされた名言/理論で構築されている。てっきり、文学だけの引用かと思ったら、『ゴダールの映画史』や『ファンタジア』からも引用してきたのには驚かされた。一方で、序盤の方は映画を専門とする私からすると表層レベルでの引用に感じた。特にゴダールに関しては、確かに膨大な既存イメージの再合成により具体/抽象を手繰り寄せ、戦争の本質を見出そうとした映画監督であり、本作との共通点を表現する引用であることは間違いないのだが、「デートピア」におけるハリウッド映画論を読んだ後だと理論づけに物足りなさを感じる。一方、「眠られぬ夜のために」の収録スタジオを言語化する場面で面白い映画の引用をしている。

映画『教授と美女』で百科事典の編纂者たちが仕事をしている部屋を思わせる、半周を本棚で覆われたスタジオで、「先生」も「生徒」も淡々と仕事をこなしていった。

鈴木結生「ゲーテはすべてを言った」より引用

ハワード・ホークスのスクリューボール・コメディである。ハワード・ホークスといえば『ヒズ・ガール・フライデー』『赤ちゃん教育』が有名ではある。統一がゲーテ研究者で、真実を巡る調査をしているのであれば『ヒズ・ガール・フライデー』が引用されてもおかしくないのだが、ここで『教授と美女』を引用してくる。もしかしたら大学の授業で本作が扱われたのかもしれない。実際に鈴木結生の母校である西南学院大学の教員一覧を見ると論文隠喩としての刺繍:アリ・アスターの『ミッドサマー』における女性性と偽装ケアを書かれている石田由希教授がいるため、観ていてもおかしくないだろう。ただ、『ファンタジア』などの引用を読むに、安堂ホセとは別のベクトルながら相当な映画好きであることがうかがえる。そのため、今年の芥川賞は映画ファンにとって燃えるものがある受賞結果であった。

↑後日『教授と美女』を観たのでレビューのリンクを貼っておく。

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CHE BUNBUN
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