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夜と霧 とその名言に虐待からの復活と人生を学ぶ

~副題:被虐待者の話なのにフランクルの話だけは極めて格調高く格好いいのはなぜか?『公正世界仮説』を乗り越える方法を教える書~


ややキツい内容の本ではあるけど、夏に、8月15日に、終戦記念日にでも、どうかな。ぜひ。

とはいっても、他の強制収容所の本と比べると、これ、奇跡的に爽やかな本だよ。

フランクル以外の、ふつうの強制収容所の手記を読むのと、フランクルの夜と霧を読むのとでは、全く読後感が違う

ところで。

DVとか、児童虐待とか、何でもいいよ、たとえば、誰かが理不尽なものすごくひどい目に遭って、そういう不幸話を他人にするとするじゃない?でも、それを聞いた人々は、同情してはいるんだけれども、どこかで「劣った存在を哀れみつつ蔑んでいる」ような態度をあなたに取ってきて、結局のところ、みじめな気分になるだけで終わる、ってそんなことってない?

どうも、不幸話って愚痴っても、共感してもらえてスッキリすることってで、なんかみじめな気分になるだけで(あれ?なんか愚痴る前よりしんどいんですけど…)ってなる時…ありません?

理不尽に気の毒な目に遭った人が不幸な話を涙ながらしてるのに、何にも悪いことしていないし別に落ち度があるわけでもないのに、なぜかうっすら軽蔑され、

「うーんこの人、何がダメだからこんなひどい目に遭ったのかしら?...あーそうだそうだ、あの辺とこの辺がダメね、ダメな人だから悲惨な目に合ったのね...かわいそうだけどしょうがないのね...」

って思われただけで終わっちゃうような、そんな感じ。

やだよね!


ものすごく失礼だし、ほんっと不愉快だよね!

じつはあれ、精神医学的な理由があって。

これはメルビン・ラーナーが実験により導き出した『公正世界仮説』と呼ばれている。

人間には不幸な目に遭いたくないという防衛本能から、不幸な目に遭った人を見ると、「この人が不幸になったのは悪人だから」「この人が不幸になったのは何らかの落ち度があったから」とみなして自分と違う、と線を引いて心の平安を得ようとするらしい!

いやはや、これはひどい!

でさ。

この感覚、極めて情けない、恥ずべき本能だけど、自分の中にもやっぱりこの獣性、やっぱり、すこしは、ある。

いや、自分がそういう扱いやられてメチャクチャ嫌だったから、他人には努めてそういうバイアスを掛けないようにはもちろんしてるよ?けど、でも、でも、ときおり、自分の本能と言うか獣性みたいなものが、無意識に誰かをエンガチョしているかもしれない時がある。

自分がそういう扱いやられた事はメチャクチャ嫌だったのに他人にそういう感情を無意識に持っているなんて、自分自身の浅ましさにもぞくっとして、本当に嫌になる。



でも、フランクルの本からだけは、その公正世界仮説的な獣性を刺激する要素がまるでない。

歴史上これ以上ない、悲惨なみじめな話のはずなのに、被害者側をエンガチョしたく・・・ならないの。

他の不幸話、みじめな話、悲惨な話、他の強制収容所の話を読んだ時の『あの感じ』が、ない。

読者はなぜか公正世界仮説に引きずり込まれていかないの。

むしろ読めば読むほどフランクルを格好いいくらいに感じてくるの!

で、私自身も、ちょっとした虐待被害者的な経験もあるのでそこから復活するときにこの『夜と霧』の不思議なカッコよさ・強さの理由ものすごく気になって気になって気になって気になって

どうすればこうなれるの?なんで?なんでなの?って、長年、頭ハゲそうなくらい繰り返し考えたんだよね


この『夜と霧』を繰り返し繰り返し読みながら考えてたら、ある頃からわかってきた。



虐待ってさ、まずターゲットにとにかく人としてサイテーなことを無理やりやらせて『ほうらこんなサイテーなおまえだから未ひどい目に遭わされても当然なんだよ』とターゲットは虐待されるのが当然なほどにサイテーなんだって謎理論をターゲット自身にも周囲の傍観者にも心理的に納得させるのが虐待関係を維持するためのものすごく重要な一番のポイントなんだよね。


罪を犯させる。
恥ずかしいことをさせる。
不潔な状態に甘んじさせる。
仲間を裏切らせる。

...強制収容所でもありとあらゆるそういうことが、あった。

だから、いかにひどい目に合ったか、ということを正確に告発するためには、虐待された人って、自分のそういう人としてサイテーなことをやらされたという話をカミングアウトしまくることになっちゃう。

言い換えると、

虐待や差別というのは、

まず相手にわざと罪を犯させわざと恥をかかせ、

「だからお前は虐待されてしまうレベルの卑しい恥ずかしい罪人なんだよ」


虐待者の罪悪感を軽減し、
被虐待者本人を納得させ、
周囲に広く広く納得させる

というものすごく恐ろしいプロセスがあるのよ。

そこにダメ押しのさっきの『公正世界仮説』の奇妙なバイアスが加味されてどんどんどんどん強化されていく。

たとえば虐待から抜け出るためにと、たとえば虐待者の罪を告発し自分の正当性を理解してもらうためにと、共感を得ようと、虐待について語っても、語れば語るほど、なぜか虐待の事実に自分で自分が絡めとられていき、ただただ自分で自分をセカンドレイプしたみたいになっちゃう。 

ところが、フランクル本は、どこを読んでも、本当に、そういう罠に嵌っていく感じが全くない!!!! 

これ、一体なんでだろう?って何度も何度も読んだんだけど。

そしたらね、

よく考えると、フランクルって、囚人がどのような恥ずべき罪を犯されられたの事例について、あまり具体的に書いてないのよね。

でね、実はフランクルは、そっち方向の話でなくて、

延々と、人類にこれ以上ないような極限状況下で、自分がやった、自分が見た、1000人に一人の、10000人に一人の、

あんな強制収容所でユダヤ人達が成し遂げた一瞬の特別な尊いすばらしい格好いい事例についてばっかり延々と列挙しているのですよ。

あまりに状況が悲惨すぎるから、どんな格好いい事例もおぞましいほどの悲惨の中に咲いているので、まさかフランクルが数少ない高貴で格好いいレア事例ばかり思いつく限り列挙してるってことを、読んでみてもなかなか気づけずうっかりと見過ごすんだけどね。

『夜と霧』って、あれ、

『あんな強制収容所でもたまに居た、高貴でカッコいいスゲエ人々事例集、あんな状況下でも人間がやった尊い行動の事例集』なんですよ、実は!

でね、私、

それ、いいな、それ採用!


って思ったんですよ。

全く悪くないのに悲惨な状況に遭い辱めを受けた人というのは、そういう目に遭ったというその一点だけで、「能力が低い」とか「悪人」だとか思われてしまいやすいというトンデモバイアスがあるのだから、

だからさ、フランクルを見習って、

ひどい目に遭ってトラウマで苦しんでる人は、もう開き直ろうよ!

どんな悲惨な状況でも、どんな辱めに遭っても、それでも私はこんなに良いことしたぜ、格好良かったんだぜ、ってことをあざとくても、ささやかな事実しかなくても、照れないでちゃんとしっかりアピールしてしまえばいいんだよ。

そういう格好いいことができたのは本当にまれな事だったとしても、基本的に辱めを受けているだけだったとしても、でも

それだけの辱めを受けながら立派な態度をとったとか、なにかそういうことが、ほんの一回でも、あったなら、それって虐待されてないふつうの人にはなかなかできないことかもしれないわけじゃない。

そういうことに、ちゃんとプライドを持って、「自分はこんなひどい目に遭ったけど、そういう時には中々できないような、こんなことができたんだよ」ってアピールしてもいいんだよ。

フランクルの『夜と霧』ってのは

「強制収容所という人類史上最悪なエゲツイところにぶち込まれても稀にこんなカッケエ人がいましたよ事例集」

なんですよ。

だから、『夜と霧』は格好よかったんだね。

だから、『夜と霧』は、どんな読者からもちゃんと『感動と尊敬』の方を引き出せるんだね。『公正世界仮説』の文脈の『獣性に満ちた侮蔑』を引き出さないんだね。

という訳で、そういう『伝え方』の面でもこの人は

『世界中のありとあらゆる虐げられている人々』に

『自分を取り戻す方法』

『幸福を勝ち取る方法』

を教えてくれる、

とてつもない

人生の『師』なのです。


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V・E・フランクル

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