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【おすすめ散策コース】関東大震災から101年・・浅草橋・両国・蔵前界隈を歩く(前編)浅草橋から両国へ

関東大震災は、1923年9月1日に発生しました。震源地は房総半島から三浦半島、相模湾付近で、倒壊家屋は神奈川県が最も多かったのですが、昼前の炊事等を多く行っている時間帯であり、東京都内などで火災が発生し、北陸地方に台風が接近している影響もあり、強風が吹いていたことも原因で、火災の延焼が顕著になり、20万戸の家屋が焼失し、約9万人が火災で亡くなる被害が発生しました。

とりわけ、東京・両国にあった、「陸軍被服廠跡地」は、火災により逃げ場を失った避難者が集まった空地の広場を火災による旋風が襲いかかり、この場所だけで4万人くらいの犠牲者が出る大惨事となりました。

関東大震災の震度分布・家屋倒壊率(防災白書より)
家屋被害件数と死者数。火災による被害が一番大きかったことがわかります。

今回のウォーキングは、この震災のことを学ぶことと、その後に実施された「戦災復興事業」のことを歩いて学び、その被害のこと、災害に強い街づくりのことなどについて考えてみたいと思います。それだけではなく、今回の浅草橋、両国、蔵前地区の気になるスポットも織り交ぜて散策したいと思います。

■今回のコース

①浅草橋駅(スタート:震災復興の過程で完成した総武線)→②浅草橋(震災復興橋梁)→③構造物埋設標識→④柳橋(震災復興橋梁)→⑤両国橋(震災復興橋梁)→⑥回向院と旧・両国国技館→⑦横網町架道橋→⑧総武線隅田川橋梁→⑨総武快速線探し→⑩船溜まり跡→⑪国技館→⑫両国駅→⑬総武快速線→⑭江戸東京博物館と、両国ポンプ所→⑮旧安田庭園→⑯安田学園・同愛記念病院→⑰東京都慰霊堂→⑱復興記念館→⑲蔵前橋(震災復興橋梁)→⑳蔵前ポンプ所と旧・蔵前国技館→㉑榊神社(東京科学大学の始祖)→浅草橋駅(ゴール)

今回の歩行コース(約4kmのコースです)

■①浅草橋駅

今回のウォーキングのスタートは、両国駅の隣、浅草橋駅です。浅草橋駅は、震災復興事業の進んだ1932年(昭和7年)に総武線の駅が開通しました。1960年(昭和35年)には、都営浅草線の駅も出来上がり、今ではその両路線が乗換可能な駅になっています。

高架のJRと、地下の都営の駅に両方アクセスできる駅舎。
JRの駅は、一般道を跨いだ場所に駅舎があるという構造です。
駅のホームが張り出した形式になっています。
駅構内は、古レールで作られた上屋が見事な駅。

今回は、駅の探索はメインではありませんが、駅の魅力を探った探索を先日行いました。(その記事はこちら)

■②浅草橋(震災復興橋梁)

関東大震災後の帝都復興事業では、様々な事業が展開されましたが、土木事業としてよく知られているのが、「震災復興橋梁」の架橋事業です。浅草橋は、江戸城から浅草方面に繋がる道であり、日光・奥州街道の一部であり、また今の国道6号である、水戸街道の一部であるような重要な道路が神田川と交差する橋です。

昭和5年に架橋された浅草橋。
「あさくさはし」と書かれた親柱。

■③河川埋設標識

少し震災復興の話からは脱線しますが、浅草橋近くにはこんな標示が。

こちらは、都営浅草線の河川占用許可標識。
浅草橋を避けて東側を走っています。
そして、神田川沿いにこんな標識を見つけました。
総武快速線の円形トンネルが海抜-16~-23mに埋設されているとの表示。

両国駅付近で地下に入る総武快速線は、隅田川の下をトンネルで抜け、馬喰町駅はとても深い所を通っているのです。そんなトンネルが川の下をくぐっているという標識です。

■④柳橋(震災復興橋梁)

神田川の一番下流にある橋が、柳橋です。こちらも昭和4年完成の復興橋梁のタイドアーチ橋です。

なかなか重厚な部材を間近で見られる橋です。
そして、その橋の脇には「復興記念」の石碑が。
第二工区 請負人 米沢助五郎 だそうです。

■⑤両国橋(震災復興橋梁)

こちらは、隅田川に架かる、国道14号 両国橋です。
丸い親柱の上の照明が印象的です。

丸い装飾、何だろうな・・と理解できていなかったのですが・・、よく考えてみたら、あ、花火!!そういえば、昔ながらの隅田川の花火は、この橋の上流で打ち上げられていたはずです。

打上げ花火をイメージしているのでしょうか。
なかなかシブいデザインの照明です(笑)。
さりげなく、国道施設として管理されているところが、なかなか良いです。
こちらは、軍配の形の横断防止柵。
両国橋の上に架かる首都高は、この部分は
ちょっとおしゃれに装飾されています。

■⑥回向院と旧・両国国技館

そして、両国橋を渡って少し歩くと、回向院に到着します。その隣には・・、

国道14号、京葉道路 という表記があります。
回向院の隣にある、両国シティコア。その中庭は、
ただの自転車置場と思いきや、丸い形のモニュメントが。
ここに、かつて両国国技館がありました。
そしてその隣にある、回向院。

この回向院(えこういん)は、1657年(明暦3年)に開創されたお寺です。当時発生した、明暦の大火によって亡くなった無縁仏などを葬るために、当時の将軍、徳川家綱が創建したのが、このお寺なのだとか。以来、人だけでなく動物の仏など、様々な命を弔う役割を果たしています。

この、力塚は、相撲に関係する角界の方々を弔う場所。
亡くなった親方、年寄の名前が刻まれています。
その周りには、東京相撲記者碑、なるものも。
相撲協会と記者って、昔から密接に関係しているのですね。
こちらは、猫の霊が祀られている場所。
献花する人が絶えず訪れているようです。
海難事故などが起きた際に、慰霊碑が建てられています。
こちらは、相生理髪業組合が建てた、関東大震災で亡くなった方の慰霊碑。

■⑦横網町架道橋

回向院から少し北に歩くと、両国駅に到着しますが、駅に行く前に少し隅田川沿いに寄り道したいと思います。

両国駅から高架線で道路を越えていく総武線。
これが、横網町架道橋です。
橋のプレートにある、「横網町架道橋」の名前。

ここは、今の両国国技館がある場所の地名なので、よく、「よこづな」と間違えられがちですが、実は、「よこあみ」なのですね。

■⑧総武線の隅田川橋梁

そして、両国付近を象徴する橋梁の一つとして、総武線の隅田川橋梁を眺めてみたいと思います。

隅田川を見事に一跨ぎする橋です。
設計者は、復興橋梁を多数手がけた、田中豊さんです。

■⑨総武快速線の埋設標識

それで、この隅田川でちょっと面白いのが、この標識です。

大きな絵図の隣にさりげなく存在するプレート。
総武快速線がこの直下の地下を通っていることを示す標識。
国鉄構築物河底構造標識 とあります。

地下を走る鉄道は、目には見えませんが、河川内を横切る場合は、こうした標識を原則的に設置する必要がありますので、よく注意してみていると、ここに線路が走っていることを認識することができるのです。

■⑩昔の船溜まり跡は・・

今昔マップで昭和20年代の航空写真と今の地図を見比べてみると、今両国国技館や江戸東京博物館がある場所に、隅田川から引き込まれる水路があり、船溜まりがあることがわかります。

昭和20年代に、両国貨物駅付近にあった船溜まり。

この船溜まりは、両国駅がかつて貨物駅の機能を持ち、物流の拠点だった時代に、舟運との結節点である必要があるために作られていたようです。現在では・・

何やら、水門のような放流施設がありますが・・。

今では、東京都下水道局の「両国ポンプ所」から排水される水の放流施設が、船溜まりの跡にあるようです。

■⑪両国国技館

おなじみの、両国国技館です。この日は、学生相撲の選手権をやっていたため、少しばかり活気がある状況でした。この国技館は、「今昔マップ」で見る限り、国鉄時代には貨物駅だった場所を活用した施設であると言えます。

国技館。かつての貨物駅の跡地に建ちます。

■⑫両国駅

そして、両国駅に到着。両国駅は、関東大震災前から総武線のターミナル駅でしたが、震災で被災したのちに、立派な駅舎を持つ駅として再生されました。

かつては房総方面の列車の始発駅としてにぎわった両国駅。
総武快速線が開業し、始発駅としての役割を終えました。

今では、昔の駅舎が商業施設として再生されています。
その場所で中休みをするのが、今回の歩くコース。そしてこの前編もここまで。後編は、さらに両国駅界隈等を歩きますので、お楽しみに。

■終わりに

関東大震災をテーマに歩くコース。両国駅周辺は、震災復興橋梁の数々や、昔から災害等で亡くなった人や動物を弔った回向院があるなど、なかなか見どころ満載の場所でした。後半戦では、関東大震災で最大の死者を出した、旧・陸軍被服廠跡地付近を訪ねたいと思います。

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