村上しほり著『神戸――戦災と震災』評/災厄をまたぐ連続性を描いた都市史
◆ちくま新書、2024年12月9日発売(2025年1月3日読了)
神戸は阪神大水害(1938年)、神戸大空襲(45年)、阪神・淡路大震災(95年)と三度にわたり傷つき、その度に復興・再生へ尽力してきた街です。
本書は、主に明治開港以来の神戸の歴史をたどった本ですが、「三つの災厄」(陳舜臣)による断絶のみならず、災厄の前後の連続性に着目して書かれているのが特徴的です。
たとえば、戦時経済下の41年末から始まった空き地での菜園奨励は、45年2月の大空襲後の戦災跡地の農地活用という形に姿を変えて行われ、敗戦後も47年春に食糧事情が改善するまで続きます。
戦災跡地活用にあたっては、既に都市疎開が進んでいたにもかかわらず、農園化への異議申立期間は僅かに設けられただけで、その間に警察署に申告がなければ「御承認を得たものと看做」すという強引な方法で行われたといいます。同様の措置は敗戦後にも実施されました。
神戸市の戦災復興計画は主に用地買収ではなく区画整理方式により行われることとなりましたが、このとき参考にされたのは関東大震災復興の記録誌でした。「戦前に語られていた東京の帝都復興による理想都市実現への憧れは、神戸市の戦災復興へと引き継がれた」(215ページ)のです。
しかし戦後、三宮には日本最大の闇市「三宮自由市場」ができるなど、都市民の手による生活再建が急速に進み、その速度は行政による復興事業を大きく上回るものでした。
当時を知る人への貴重なインタビュー記録は本書の目玉です。それによれば、多様なルーツを背景に持つ露店が立ち並び、一触即発の危険はありながらも統制団体の影響で比較的治安は保たれていたようです。統制経済下でも後背地からの供給が豊富で、闇市に行けば高いけれどモノはあるという状態があったとのこと。
こうした闇市はその後、元町高架通商店街のように長らく愛される商店街へと引き継がれるものもありましたが、一方で、復興事業の過程で、51年には鯉川筋商店会の強制立ち退きが行われるなどの摩擦もあったようです。
戦後復興事業は、国の予算打ち切り等もあり名目上は1959年に終了しますが、別の制度への切り替え、引き継ぎなどにより実質的には続けられることとなります。この時点で65年の収束を目指していた事業は、結局、最後の換地処分は98年に葺合地区で行われてゴールとなります。戦災復興はなんと平成まで続き、震災復興とオーバーラップする形となったのです。
阪神・淡路大震災で大きく被害が出た地域は、六甲道や新長田など、空襲の罹災を免れたことで戦災復興事業の対象とならず、古い木造家屋などが多く残っている地域でした。
いわゆるインナーシティー問題として認知されていたこれらの地域の問題への対応は、震災前から構想はあったものの結果的に間に合いませんでした。戦災による断絶がなかったことが、都市の更新を遅らせ、結果的に震災による甚大な被害と断絶をうんでしまったというのです。
とはいえ、そもそも神戸のインナーシティー問題には「郊外エリアの開発によって持ち家と子育て環境を求める若年層やファミリー層がニュータウンに移ったことで、高齢世帯や空き家に入居する低所得層が増えた」(279ページ)という側面もありました。震災が、神戸の戦後都市開発の決算になってしまったのだとしたら、あまりにもむごい結果です。
私が神戸で大学生をしていた頃、震災について当時を知る方から聞いた言葉で強く印象に残っている言葉が「震災は、もともとあった神戸の課題を顕在化させた」というものでした。
障害者への福祉の不足、在留外国人の地域内孤立、戦災により学校教育を受けられなかった人たちなど、もともと支援が必要とされていながら体制が追いついていなかった層は、震災によって、より追い込まれました。それらをすべて「震災のせい」にするのではなく、いかに平時に、足腰の強い社会を形成していくかが大事だという警句だと、私は受け取っています。
その意味でも、災厄を断絶点としてのみ捉えるのではなく、その前後にある連続性や文脈を押さえて、都市史を編んでいくことは大きな意義を持つことだと思います。
著者はこうした都市史を編むうえで、市民の「場所の記憶」を途絶えさせないという観点で、市民のパーソナルな記憶に紐付くような資料の受け入れを行う公的機関の必要性も説いています。このような体制ができればすごいことですし、期待したいものです。