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【小説24】麻子、逃げるなら今だ‼︎〜旅立ち〜

全話収録(フィクション)⤵️

前日譚•原案(ノンフィクション)⤵️



24.旅立ち

 「離婚届を取りに行く」とファックスで夫が指定した金曜日のことを麻子が思い出したのは「都合があるならメール下さい‼︎」というファックスを見たときだった。
先週のデイサービスは虐待疑惑や岩山さんのことでてんやわんや。
金曜日のことを思い出すことはなかった。
 直接夫と話せるなら、誰かとシフトを変わってもらおうと思っていた筈なのに。
離婚届もない留守宅で、夫はさぞかし呆然としたことだろう。

 その後も夫からは定期的に「離婚届を取りに行きます」と活字のファックスが届いた。
どうやら夫は自分の出張に合わせた日を指定しているらしく、麻子のシフトとは合わないまま時間だけが過ぎて行く。
 メールで話し合いましょうと提案した本人からメールする気はないらしい。
娘の由美や息子の修や進は「そんなの初めから判りきってること」とまるで他人事、気にする素振りもない。
麻子なら実の子どもから蔑まれるのには耐えられない。

 法人内に7つあったデイの1つが営業を終了した。
このままの売り上げでは、二の舞は避けられないと叱咤されている。
 ソーシャルディスタンスを保て、感染防止を万全にしろ、外部研修や不要不急の外出はするな、売り上げは上げろ、営業には行け…
支離滅裂な言い分にうんざりする。
 そもそも今の時期に時間をやりくりして外回りをしても、ケアマネ事業所自体が外部からの訪問を受け付けていない。
ケアマネに会えなくても行くことに意味があると管理者は言う。
じゃあ管理者が行けば?と思いながら営業用の文書を黙って郵送に回す。

 567、567と未だ未だ何かと煩わしい。
外出制限以外に施設内の会議、ミーティング、研修が議事録回覧に変更されたことで時間に余裕ができた。
会議づけの日々は一体何だったのかと思う。
在宅ワークができる業種ではないが、567が収まっても、せめてこの状態は続いてほしい。
 それでも定時に退勤するのはなかなか難しいが、残業時間は減っている。
休日に「仕事の段取りで頭の中が一杯」ということも少なくなってきた。

 久しぶりの連休に晴天なのは気分が良い。
今日、行っちゃおうっかなぁ…
 早く帰れる日に少しずつ準備を進めてきた。
分籍届、離婚の際に称していた氏を称する届け、戸籍謄本、定額小為替、返信用封筒、切手…
離婚届の証人欄は由美と修が書いてくれた。
 できれば今日1日で離婚、分籍、世帯分離、運転免許証、介護福祉士の変更手続きまで一気に済ませてしまいたい。
住所変更をしないのならケアマネ資格の手続きはしなくて大丈夫。
天気も体調も気分も味方をしてくれているような気がする。
麻子が良いねと決めたから今日を離婚記念日にしてみようか。

 夫との離婚に否はない。
初めは「そちらが言い出すのはおかしいのでは?」「慰謝料をもらわないと割りに合わないのでは?」と考えなくもなかった。
今では夫が「つもり貯金」の存在に気づいていないことに感謝だ。
これを折半しなくて済むのなら、もらえるかどうかも怪しい慰謝料には期待しない。
 万一、浮気をしていたとしても構わない。
どうぞ熨斗紙を付けて差し上げます。
上手く行くと良いですね、ご愁傷様。
唯一気になっているのは子ども達のことだった。

 由美も修も進も大人だ。
奨学金の返済は終わっており、父親と違って借財はない。
リボ払いもしない子達だ。
 万一困窮した夫の扶養照会が、子ども達の元に来たらどうだろう。
離婚さえすれば赤の他人になれる麻子とは違い、子ども達の血の繋がりは断てないのだ。
亡くなった後に、借財の存在を知る可能性もある。
相続放棄すればよいだけのことなのだが。
 麻子が本当に知りたいのはお金のことではない。
夫が自分の子ども達のことをどう考えているのか。
離婚の話が出てからというもの、メモにもファックスにも子どもの話題が一つもないのだ。
この人が本当に麻子の夫だったのか。
子ども達の父親だったのか。

 何度も出直さなくても良いようにスケジュールを組むのは、営業で慣れているからお手のものだ。
書類は何度も見直したし、提出物も揃っているし、印鑑も準備した。
待ち時間で読む文庫本も入れてある。
一応、地味目な服装で出かける。
 市役所の窓口はとても感じの良い男性だった。
本当は後日に来てもらわなければいけないんですけどやりましょうね、ここで手続きをしている間に4番窓口で世帯分離の手続きをすれば早いですよ、何か言われたら私の名前を出して構いませんからねと、とても優しい。
離縁される惨めな女に見えるのかな。

 「前田さん達、お給料が上がったんでしょう」とデイ利用者から声をかけられた。
きっとご家族もそう思っていることだろう。
 保育士は12,000円、介護士は9,000円給与が上がると話題になった。
満額上がったところで低賃金なのは変わらない。元が低過ぎるのだから。
 そもそも育児も介護もやったことがないおじいちゃん達が決めるのだ。
ご自身のお宅にはきっとお手伝いさんがいらっしゃることだろう。
スーパーの野菜の価格もご存知ないだろう。
 麻子が務める施設には、約120名の職員がいる。
この中には看護師、ケアマネ、事務員、ドライバー、営繕、清掃の職員も含まれる。
国から支給されるのは9,000円×介護職の人数分だけだ。他職種は含まない。
それを120人で割るのだから9,000円の半額にも届かない。
 皆んなこんなお給料でよくやってるなと感心する。
うっかりと「やりがい」を感じてしまったばっかりに。

 シングルに戻っても、誰にも気づかれない。
殊更伝える必要も感じなくて、子ども達にしか話していない。
管理者や岩山さんには絶対に言うものか。
 会社の手続きは必要だろうか。
後で総務の新井さんに訊いてみよう、「世帯主が変わったんだけど」って。
ピンとくるかも知れないけれど、きっと黙っていてくれる。
 結婚記念日がなくなって離婚記念日ができた。
夫が居なくなって元夫ができた。
 元夫は離婚届をテーブルに置いて行って以来家賃と公共料金の払い込みをやめたから、名義は麻子に変えてある。
住む場所も仕事も変わらないが、繋がれていた鎖が切れて自由になった気分だ。
 これで、元夫からは逃げられたのかな。
(2,516文字)


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