【読書】日米の正義を比較する ーーウォール街の狼は仲間を売り、コナン君は神になる。【決闘裁判】
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』という、実在の株式ブローカーをモデルにした映画がある。この映画は95%くらい、酒を飲んでるかドラッグをキメているかセックスしてるかの映画なのだが、勢いがあって結構好きな映画の一つだ。
この映画中で、ジョーダン・ベルフォートという人物は2億ドルの詐欺で有罪となるが、詐欺仲間の情報を当局へ売り渡す「司法取引」によって減刑される。
映画では、最終的には刑務所も買収し、優雅にテニスを楽しむシーンで終わるので、「やっぱアメリカはトンでもねえな」「金さえ積めば何でもありかよォ」という感想が湧く。特に取引によって量刑の軽減を行う「司法取引制度」などは、ぱっと見、賄賂や謀略が渦巻くアメリカ社会の裏の側面のようにも感じる。
だが司法取引はハッキリと認められた制度だ。我々が司法取引にちょっとした違和感を感じるのは、日本とアメリカの「正義」の違いに由来している。
ちびっ子探偵の理不尽な「正義」
裁判について考えると、日本は客体的真実主義を採用している。これは「裁判では真実の究明を図るべき」という考えだ。つまり日本で言う正義とは、真実を明らかにして処罰するべきものを処罰することなのだ。
一方でアメリカでは、当事者主義を採用している。これは事件は当事者間での問題であり、「裁判では真実よりも事件当事者の勝ち負けをフェアプレイの精神に基づいて決定する」という精神である。
当事者間での問題だから、当事者双方が納得する結論なのであれば真実は二の次で構わない。事件に関する情報を提供する代わりに、刑期を短縮してもらう司法取引の概念は、まさにこの当事者主義という発想から生み出されている。
※
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の司法取引がアメリカの正義を象徴しているのとは逆に、日本の正義を象徴しているように見えるのが『名探偵コナン』だ。
事件の加害者からしたら、部外者の子供がノコノコしゃしゃり出てきて事件の真相を演説してきたら、まず「お前誰??」という感情が先に来るだろう。「警察も止めろよ」と。だが、コナン一味と警察は癒着しているので、哀れな犯人は、まったく見ず知らずの他人に理不尽に裁かれてしまう。
当事者から見れば迷惑極まりないコナン君だが違和感がないのは、日本の正義が「真実を究明すること」にあるからだろう。
『決闘裁判』
さてアメリカの当事者主義に注目すると、歴史的な背景は中世ヨーロッパにまで遡る。
もしあなたが中世ヨーロッパにタイムスリップして罪を犯した場合、その真偽は神様によって裁かれることになる。これを神判という。
と言っても神様は直接「お前有罪!」とか言ってくれないので、神判では何かしらの方法で神様の意志を読み取らなくてはいけない。
例えば、熱湯に手を突っ込んで火傷したら有罪とか、水に重りと一緒に沈めて浮かんで来たら有罪とか。変わったものだと、大きいパンと硬いチーズを一気飲みするなんてものもあったらしい。
「…いや、無理ゲーやん、確定で有罪ですやん」と思ったあなた。安心して欲しい。一発逆転の方法がありまんねん。
それが決闘だ。「勝てば無罪、負ければ有罪」というシンプル極まりないルール。まさに力こそパワー。結局ところ信じれるのは己の肉体と技術のみ。「勝てばよかろうなのだ」精神の産物。
ここにアメリカの当事者主義の源流を見ることができる。
よくある王様のイメージと裏腹に、中世ヨーロッパには、絶対的な中央権力というものが存在しなかった。各地に領主がおり、それぞれが一城の主だったので、領主間での争いも頻繁に発生する。争いを諌める際、みんなが納得するには神様の権威を使うしかなかった。
だが一方で、神様任せにもできないという意識も芽生えていた。自分のことは自分で守るしかないという状況は、誇り高き騎士道と結びつき、自分の力で道を切り拓く決闘裁判へと繋がった。
17世紀、決闘裁判のまだ残るイングランドから移民がアメリカに到達し、現代のアメリカの基礎をつくった。中世ヨーロッパで生まれた当事者主義の萌芽は、アメリカに継承されたのだ。
そして時は現代に戻り、帝国を築いたウォール街の狼は、当事者主義の産物によって減刑を果たした。
東洋の小さな島国・日本では、小さな見た目の名探偵がデウスエクス・マキナという神様として、事件の真実を暴き続ける。
僕たちが常識だと思っているものを揺さぶること。ここに読書の面白さが潜んでいると思う。
参考文献
『増補 決闘裁判 ヨーロッパ法精神の原風景』 著:山内進
今回のタネ本。決闘と裁判という一見相反するものが如何に歴史の中で結びついていたのかを問う。特にエピローグが面白い。
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