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鏡を見る時間は、1日のうちどれだけあるだろうか


一度、立ち止まって考えてみたい。
美味しい!美味しい!と食べているサバカレーや、
美しいなぁと見惚れる韓国アイドルを見る手を
一旦止めて、自分に問いかけてみたい。

鏡を見る時間が、1日のうちにどれだけあるだろうか。

私たちの目は、顔についていて、前を見るように創られている。
危険を及ぼす敵の存在に気づけるように、周りの様子が立体的に把握できるようになっている。
目から入ってくる情報は、鼻や耳よりも多いのではないだろうか。
その量を比較したわけではないので正確なことは言えないが、私は嗅覚や聴覚が特に優れているわけではない(細かい違いがわからない)ので、それらの情報に意識を積極的には向けていない自覚がある。

ただ、目は生活の上で、かなり酷使している。
障害物に当たらないように歩くため
対峙する相手がどのような容姿なのかを把握するため
物の位置関係を把握するため
人も、景色も、建物や車などの無機物も、
いろんなものを常に見ている。

そして、人のこともよく見ている。
話している相手の顔色や表情はもちろんのこと、
休憩時間に見るyoutubeなど動画上のアイドルやインフルエンサーの仕草も、よく見ている。

世の中には、直感的に美しいと感じるものがたくさん存在する。
美しいものは、見惚れてしまう
美しいものには、憧れを抱く
美しいものは、手に入れたいと欲してしまう
目の前にある美しいと感じるそのものが自分であるならば、どんなに嬉しいことかと想像する

ただ、美しさの感覚は、人によって異なる
私にとって美しいものは、他人には美しくない場合がある
私にとってちょっと美しいと思うものが、他人にとっては目も当てられないほどに輝く美しさをもたらす場合もある

そもそも美しさとは、なんなのだろうか
今、そこについて勉強を進めているが
美しいという感覚は複雑であり、どうやら一言で表すことは難しそうであると、今のところ思っている

美しさには、善、正義、深み、艶、可愛らしさ、自然、数理、秩序、など、さまざまなものが当てはまるため、一言では表しづらいことは容易に想像ができるだろう
ただ、一貫して、ずっと見ていられるような、汚れのない清らかさを要素として持っている
何かしらそれらの琴線に触れるような要素を持っていれば、美しい存在だと見做していいのではないだろうか

そんな複雑な美を、外ばかりに求めていいのか
ということを最近よく考える
ヒトは創造性の塊である
ヒトの体を構成する細胞は、"生存"のために秩序を保ちながら自律的に動き続ける自我のもたない美しい存在であり、それらの集合体であるヒトも美しいとみなせるのではないだろうか
なので、誰もが自分自身の美しさを見つけられるし、自分なりの美しさ・美学を持つことができると思っている

しかし、ヒトという生き物は何とも不完全であり、
意識を複数の場所に同時に向けることができない
そして、目は外に向かってついているため、基本的に自分よりも外界を見ることに意識が向かっている
そのような、ヒトの不完全さや、意識が自分に向いている時間が圧倒的に少ないことに、どれだけ多くの人が気づいているのだろうか

外の刺激的な美しさを憧れることもいいが
自分を見つめ、自分自身の持つ美しさに気づく時間を作ることを意識的に行わなければ、他人が定義した美しいものが美しいものだと、刷り込まれてしまう危険性がある

目が前についてるから、自分を見つめるためには鏡を見るしかないのだ
顔は正直だ
落ち込んでいること、怒っていること、喜んでいること、思っている以上によく現れているものだ

自己を客観的に観察するためにも
鏡をよく見ることをお勧めしたい
他人の定義する美=自分が感じる美
という状態に陥らないために
そして、自分なりの美学というものを定義するために

美学をもつことで、自分にとって大切なものがわかり、研ぎ澄まされる
生き様で語れるようになる

そう思っている

あなたは鏡をどれくらい見ていますか?

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