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ダッシュボードから感じる不思議「未確認生物note」
noteを更新していて「不思議だ」と思い続けていることがある。
もしかしたら多くのnoterは、自然に受け入れているのかもしれない。
だが、私には不思議に思えてしまうのだ。noteに棲む得体のしれない生き物の存在を。
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記事を公開した直後から、多くの方に読まれることもある。いいねをたくさんいただけることもある。
そのような記事は、たまたまキーワードが「あたり」だったり、どなたか影響力のあるかたに紹介されたりしているようだ。
つまり、読んでいただける状況がたまたま整うということ。
あらかじめ読んでもらえる背景が整った前提で文章を生み出す「コラム」とは違う「エッセイ」にはありがちな流れだと思う。
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一方、誰かがいつか読んでくれることを地道に待つ「エッセイ」らしい流れでお読みいただくこともある。
私がnoteに公開したエッセイの中には、静かに読まれ続けているものがあるのだ。
そういう「エッセイ」はどういう理由いで読まれ続けているのか不明である。
「コラム」のように読んでもらえる背景を前提とせず、普遍的な内容へと昇華させて生み出した「エッセイ」と受け入れてもらえたのだとしたら嬉しい。
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ダッシュボードの数字が増えてから「時事問題」と関連していることに気づくこともある。
たまたま「時事問題」に関連したことを書いていたため、公開してから時間の経った「エッセイ」が多くの方に読まれたようなのだ。
棚ぼた的に多くの方にお読みいただく好機となり、その事柄が注目を浴びている間は閲覧数が増え続ける。
思いがけず「コラム」のような立ち位置を与えられた「エッセイ」となったのだろう。
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「エッセイ」にこだわって書いてきたが、noteで公開を続けていると、エッセイの読まれ方は、一通りではないことを知る。
ときには、本文を理解されないままキーワードや単語の拾い読みで素通りされることもあるようだ。
キーワードだけがヒットして中身は役に立たなかったことも大いにあるだろう。
読み手は、書き手の意図と違うものを受け取るのは承知していたが、その実際に触れると「書くことの限界」を感じることもある。
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「辞めます」とか「更新を止めます」といってnoteを去って行かれた方も多い。
読み手の限界、書き手の限界を感じて、私もnoteをすっかり辞めたくなる。
だが、ダッシュボードの数字を見ていると、まだ続けてみようかなと思えてくるのだ。
ダッシュボードの数字は不規則で予測ができない。まるでnoteに棲む生き物を見ているようだ。
それが、私の感じるnoteの不思議。
未確認生物note。
その生態を観察したくて、今日もまた書いている。