多様性を受け入れるとは?
多様性を受け入れる。
「言うは易く行うは難し」に読み替えができそうなくらいの難問だが、「行う」の定義を見直せば、もしかしたら可能かもしれない。
昨今の「多様性を受け入れましょう」という動きに疑問を感じながらではあるが、そんなことを思ったりした。
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多様性を受け入れることは、ときに、違いを受け入れることのように解釈される。だが、そういうことではない。
違いを受け入れるのは、「あなたはそういう考え方なのですね」と相槌を打つようなものだ。人は人、私は私。そういう割り切りの態度だ。
それに対して、多様性を受け入れるのは、「違いを持つ人を仲間とすること」であり、「社会のセイフティーネットの中に一緒に入る」ことである。大げさないい方をすれば、運命共同体として一緒に責任を負う覚悟を求められることなのだ。
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おそらく、今の日本では、違いを受け入れることすらできない人が多いだろう。仮に、違いを受け入れることはできたとして、多様性を受け入れる覚悟を持つ人がどれだけいるかというと、決して多数派ではないはずだ。
だからこそ「多様性を受け入れる」という言葉がスローガンとして掲げあれるのだろう。
しかし、目に触れるところに掲げられていたとして、その意味をきちんと理解していなければ、社会に浸透していくのは難しいのではないだろうか。
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多様性を受け入れることは、梅の実の選別に似ている。
梅干しを漬けるときに、ある程度の幅を持たせて梅の実を選ぶが、その幅をこれまでより広めにとりましょうということ。
同じ木になる梅の実であっても、同時期に熟すわけではない。梅干しに適した梅の熟し具合であっても、それには幅がある。
ひとつの瓶の中に梅干しとして同時に漬け込む熟し具合。その許容範囲を少し広めにとってあげることは、多様性を受け入れることだろう。
しかしながら、思考がこの段階で止まっている人は、多様性を受け入れることを難しく感じるようだ。
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だが、受け入れる定義を梅干しに適した梅とせず、食せる梅としたらどうだろうか?
目的にあった成熟度に合わせて梅の実を選別すると考えるのだ。梅干しではなく、梅酒にしたり、醤油梅にしたりといった活用方法を選べばよい。
梅干し至上主義にならないこと。これも多様性を受け入れることである。
どんな形であっても梅の実を食す形で活用することには変わりない。成熟度が異なる梅の実を「多様性」として受け入れあう。つまり「梅の実」として存在を認めあう対等な関係となりうるのだ。
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けれども、腐った梅の実は、どのような形であっても食すことは不可能である。
腐った梅の実が「これも多様性です」と主張したとしても、それを受け入れない強い意志を持つこと。これは、多様性を受けれる社会に求められる覚悟だろう。
食す以外の方法で腐った梅の実を活用する道を探すことは可能かもしれない。だが、決して同じ瓶の中に入れることはできないのだ。