この世界の片隅で 一時保護所(その3) 命に嫌われている~N君が教えてくれた歌②
(写真はみんなのフォトギャラリーから頂きました!)
N君は、高校に通わなくなってから、一日中、一時保護所にいた。
保護所では、学校に通学しない子どもたちは、午前・午後とも、きまった時間割があり、それぞれに学校の勉強をしなくてはいけなかった。しかし、N君は、午前中、職員が何度起こしにいっても起きてこず、やっと、「昼食だよ」、と再度声をかけられてからしか部屋からでてこなかった。(子どもたちの部屋は個室になっていた。)
あまりにやる気のない生活態度であったので、職員の人たちの中では、心配で手のかかる子どもの一人で、「長い仕事の経験の中でも、あんなにやる気のない子ははじめて見た」と言うベテランの職員もいた。
一時保護所での授業では、N君はあまり高校の教材を使った自習には乗り気ではなかった。
ほかの子どもたちが熱心に、学校の課題に取り組む中で、ひとり、好きな絵を描いていたりした。そんなN君を、ほかの子どもが、「おまえ何もしないのかよ」とからかったり、批判したりすることもあったが、だからといってN君ががつがつ勉強することはなかった。しかし、そんなN君も、一時保護所の授業で、タブレットを使用して自分の好きなことをテーマにして発表する、などという機会があったが、そんな時は、珍しく朝早くから起きてきて、発表する資料を作っていたりした。
私はそれをうれしく思うと同時に、そんなにできるんなら毎日出てきてくれよ、と思っていた。
そしてある日、N君が発表をする番になった。
N君は、この年代の子ども達の例にもれず、ゲームが好きで、発表も、ゲームに関するものや、YOUTUBEで自分が好きな番組についてだった。発表の授業には、保護所の職員や、事務方の職員の方などが多く来てくれるため、私は、いくらN君の好きなもの、といっても、一般受けしないと、結構場がもたなくて、N君が困るだろうと思ったので、なんとか、わかりやすいテーマにしてくれないかな、と内心考えていた。しかし、数日、熱心に準備するN君の横顔に、それは言えないまま、発表の日が来た。
発表の日、N君は、大人の私たちからしたら、意味があまり明瞭でないが、面白いことは面白いのであろうと思えるYOUTUBE番組を発表してくれた。後ろの方から、発表を見ながら、その場の保護所の子どもたちは平気でついていっていたが、見に来た大人たちがついていっていないのがありありとみてとれた。私は、いつN君がその場のそんな雰囲気に心が折れ、途中で「もういいです、終わりにします」、と言い出すか、心配でハラハラしていた。しかし、N君は、そんなことは気にもせず、発表中に投げかけられる質問にもはきはき答え、いつもの、瀕死の西部劇の男とはまったくちがう表情を見せていた。
どうにかこうにか発表を終え、最後のほうで、質疑応答にはいった。私がN君という子をありありと感じることができたのは、その時だった。質疑応答で、見に来ていた事務方の職員の一人が、「なぜこのテーマを発表に選んだのか?」と訊いた。そうしたら、N君は、「僕がもう死にたいと思って、病んでいた頃に、たまたまこの番組をみて、あまりに馬鹿バカしくて、面白いので、人生生きていてもいいかと思えたから」と答えた。目が覚めるような答えだった。考えもつかない答えだった。そうか、そんなふうに思っていたのか。そんなに大切な、命を救ってくれたものだったのか。私は、N君が発表の準備をしていた時に、「テーマを少し変えたら?」などと、間違っても、言わなくてよかった、と心底安堵した。大切にしているもの、自分を救ってくれたもの、そんなものがみんなちがってあたりまえではないか、と思った。もしそれを言っていたりしたら、それは、N君が大切にしていた命の恩人を否定するようなものだっただろうから。
N君の家庭は少し複雑で、お父さんは継父だった。それが家庭環境にどう影響を及ぼしたかはわからないが、いつも家庭のことを、恨んでいるとか、悪く言う割には、継父が高校の入学祝に買ってくれたという時計を、いつも大切そうに持っていた。あまりに素敵な時計なので、私はつい、「それ素敵な時計だね!」と言った時にそう教えてくれた。
「そうなんだ、お父さんが買ってくれたんだね。大切にしないとね」と私が言うと、N君は、「こんな時計、いつだって売って金にしますよ」と言った。そう言いながら、その両手は、大きめのその時計を撫でていたりした。
N君の一時保護所での滞在は、ほかの子どもたちよりも長く、冬になり、その一時保護所の子どもの滞在最長記録を塗り替えようとしていた。
(次回につづく)