#136 うんざり
本日は6時40分起床。暑くて目覚める。当然ながら寝覚めは悪い。
私はどうにも夏という季節が苦手だ。高温多湿はつらい。
しかし、ひきこもりは肩身が狭く、エアコンをつけることにも罪悪感というか抵抗を感じる。
それでも苦を遠ざけたいから結局つけるのだが。やはり野性の勝利となる。
今、気分が落ち込んでいる。うつ状態。
やはり興奮のあとにはこういった時期が来るようだ。
まるで祭りの後。そして後の祭りでもある。
マイルドな躁鬱と言っていいかもしれない。
多かれ少なかれ皆そういう波を持っているのだと私は思っている。
うつ状態の原因はあるといえばあるが、それほど大したものとは思えない。
主に自己の能力についての落胆だ。私は自分の能力の低さを受け入れることが出来ていない。よく言えば負けず嫌いで諦めない性格なのかもしれないが、どうも執着し過ぎている気がする。もっと気長にコツコツ問題解決すればいいものをさっさと終わらせてしまいたくなる。そこにはギャンブル志向が見て取れる。ああ厭だ。
しかしながら、私にとってこうした(平凡な)悩みは常に付きまとうものだといっていい。よって、それが直接的に気分の落ち込みに関与しているとは思えない。
個人的には「興奮状態の時の情報過多」がうつ状態の一番の原因ではないかと感じている。
最近の私は一気にやることを拡大し過ぎていた気がする。
そんなに多くの変化をこころとからだは一度に受け入れられるだろうか。
そして、焦燥も感じ取れる。
焦燥から興奮状態が生じているのか?
不安→焦燥→興奮→情報/行動の過多→憂鬱→回復→安定→(スタートに戻る)
とでもいうか。よくわからないがそれもありそうだ。
純粋に楽しいとか、快いとか、そういった感じを私は忘れてしまった。
というか、元来なかったのかもしれないが、それは置いておこう。
昨日は実店舗に赴き、色々と物色した。
時間も相当かけたし、沢山のものを見た。
そうした情報の多さに疲れてしまったのだろう。
しかも慣れない外出をしたものだから、それも疲労に拍車をかけたと思う。その上、気に入ったものは見つからず、買い出しに満足することも出来なかった。
普段、刺激の少ない生活(引きこもり生活)を送っていると、その程度のことでも脳が発熱してしまう。困ったものだ。
ああ、それから、店の照明は大概刺激が強めだから、そうしたことも影響しているのかもしれない。
私は「知的基礎体力」とでもいうものが無いのだと思う。
ちょっと考えたりするともうそれで疲労してしまう。
買い出しに行くだけでも手順とか勝手が解らずに一苦労。店をはしごする場合はその順序を考えねばならないし、持ち物は何を持っていくか、などそうしたレベルで私はアワアワしている。小学生でもそこまでは中々ならんぞ。ワーキングメモリの限界を感じる。しかも加齢による記憶力の低下がここから加速していくことが予想されるから、かなりハードな人生になりそうだ。
私のもつ資源は安っぽい粗悪品であるから、それをフル稼働するとダメになる。
冷却が追い付かない。
自分は何を目指しているのか、何者になろうとしているのか、良く解らなくなる時がある。
多分、これは興奮状態の時の思い付きを落ち込んだ時の私が処理できていないのだと思う。受け入れられていないと言うか。
そこにはある種の乖離があるような気がしてならない。だから急に自分の営みが馬鹿らしくなったりする。
1週間で5つの新しいことを始めたのはやり過ぎのような気がする。
それらをこなし、上手く処理できる脳があればいいが、私にそれは荷が重い。
私は一つの物事に固執する傾向が強い。
だから、一つ引っかかるとそこばかり反復したり反芻したりする。
すると、他の要素が疎かになるから、未熟なままで、そちらもつまらなくなる。
並行処理は私の最も苦手とするところかもしれない。
本当に要領が悪すぎる。
率直に言って、アホなのだ。
野性も理性も弱すぎる。ヌルい。ヌル過ぎる。しょうもない。
しかし、自己愛が強いから、その駄目な自分を許すことが出来ない。
自分は万能に値する人間なのだ、それができる器だ、という幻想との戦い。それがメタ認知後に待っていた世界。
本当に自虐的というか破滅的だと思う。
今日はユーモアがずっと奥に引っ込んでしまっている。徹底的に自分を虐めたい気分だ。だが、それをやっても空しくなる。むしろ自己嫌悪が増強されるだけかもしれない。
強烈な自己愛と自己嫌悪に私は振り回されている。
それが私の性格というか、自分自身であるから、制御は無理だとわかりつつも、もう少し苦痛を和らげたい。
楽なほうがいい。最近本当にそう思う。
私は困難とか苦労をいたずらに蒐集し過ぎている気がしてならない。
以前、親や親戚にもそう告げられたことがある。昔の先生にも言われたことがあったような気がする。
何故そっちに行くんだ、と。
自分でも本当にそう思う。でも何故だか奇妙な選択をしてしまう。
以前述べたように、私は天邪鬼なところがあるから、行かない方が良い道を選択してしまうのかもしれない。
しかし、それを続けていると負傷してしまう。些か自虐が過ぎる。
ここ数日は睡眠の乱れもある。
興奮状態を鎮めねば。それに乗じると、どっと疲れる。挑発に乗らない冷静さが必要。
もう少し規則正しく動けないものか。
そうした行動パターンも色々な手段を持っていると豊かである。
これしかできない、という状態はかなりやばい。
如何なる環境にも対応することのできる力、これこそが大事だ。サバイバル能力とはアウトドア的なそれではない。それは寧ろ実践的ではない。貴族的な営みといっても過言ではあるまい。
いつでもどこでも生きていける強さが欲しい。
時代や社会に振り回されたくない。
しかし、私の能力の限界がその夢の成就を許さない。
手厳しい。これが現実か、畜生。
固執とは、循環していないことだ。
複数のことを時間割の如く規則的にこなすということは一種の循環なのではないか。
一つのことばかりやるというのは、その時点で停滞が進行しているといっていいだろう。
もう思い切ってやめてみようか。放り投げる。私にはこうしたショック療法も時に必要かもしれない。
まぁ、理想を言えば、時間を決めてそれを遵守しつつ、毎日少しずつ継続していくことが望ましいのだが。それが大人の対応というものだ。
私は長期記憶にある知識と技術によって動く。
だから情報をリアルタイムで参照しながら判断するというようなことがない。
それは非常に面倒くさく感じる。率直に言って好きではない。面倒に感じているわけだから、快くないという判断を脳は下している。
長期記憶の倉庫に物事を収めるには、どうしても時間が掛かる。
だから、大抵私は時間の経過とともに楽しさとか快さを覚える。いきなり楽しいというのはまずない。楽しいと思えるまで継続できるかどうかが勝負だ、と思っている節がある。
皆そうなのかもしれないが、どうなんだろう。
楽しめない。なぜこうもムキになってしまうのだろう。
いい歳して、泣きながら取り組むことだってある。昔のアスリートじゃあるまいし。
洗練を欲するあまり、せっかちになってしまう。
全て一番になりたくなってしまう。
私はこの競争心が厭で競争しなくなった。だが、それは本能でもあるから、いつも外に出ていく機会を狙っている。要するに御し難いものなのだ。
どのようにアウトプットして上手く人間社会の中で発散するのか、これは中々難しいことだ。
競争ぎらいの人と競争好きのヒトのせめぎ合い。もうどこか他所でやってくれ。
うんざり。
そうだ、今日の気分は正にそんな感じだ。この記事のタイトルはそれに決定することにしよう。