憂しと見し世ぞ今は恋ひしき
ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋ひしき
百人一首の中でも特に好きで、歳を重ねるごとに味わいが深まる藤原清輔の歌だ。
一般的な歌意は、
生きながらえるなら、またこの頃のことも思い出されるのであろうか、辛いと思っていたことが今では恋しく思い出されるのだから。
と倒置で、過去に学んだ経験則から、自分の未来の心情に想いを馳せている。
「恋ひしき」とあることで、若い頃は恋の歌と解釈したが、これは通底する己の人生を詠んだものだと理解するようになった。
恋に限らず、過去に辛い思いをしたことで現在の自分があり、その現在抱えている思いを基準点として、この先の心情を予感している。
気持ちとしては過去に対して後ろ向きだが、人生に於いて誰でもこんな一瞬を経験したことがあるはず。
それを踏まえて鑑賞すると、この歌の複雑さが消え、かなり理解しやすくなる。
心情の揺れは過去を忘れられずにいることであり、懐かしく思い返している自分に気づく。
そして将来への予感である。
この予感に対しても、すでに清輔はいとおしく感じている。
現在の基準点が、すでに辛い時期だったのだろう。
だからこそこのような歌を詠んだわけで、大いなる共感を得て百人一首にも採られた。
共感は共震である。
拙速に読み流してしまうと、この歌の味わいを素通りすることになり、それではあまりにももったいない。
いくらでも感情移入できる歌で、読むたびに共震の振れ幅が大きくなる奥深いものだ。
清輔は第六番目の勅撰集「詞花集」の撰者だった左京大夫顕輔の子で、六条家の歌学を大成させ、「奥義抄」や「袋草子」などの著作がある当時一流の学識者であった。
「千載和歌集」の撰者で、御子左家のサラブレッド、皇太后宮大夫俊成(子は定家、甥は寂蓮)と激しく対立したが、七十四歳まで生きた人物である。
俊成には一歩譲るような評価だが、対比として百人一首の83番に採られている俊成の歌を載せる。
世の中よ道こそなけれ思ひいる山のおくにも鹿ぞ鳴くなる
あっさりと断定する俊成に比すれば、はるかに清輔の内省の深さがわかる。
ながらへばまたこのごろやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋ひしき
やはり良い歌である。
余韻と余情の奥行きが違う。
私は清輔に軍配を挙げたい。