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『サンショウウオの四十九日』をよんで2【基礎教養部】
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私とは何か
私とは何か。この問いはいつの時代も問われてきた。『サンショウウオの四十九日』が2024年の芥川賞に受賞したことは「自己とは何か」という疑問が、再熱を帯び、今の時代に何となく共有されていることを示しているのではないか。
現代は情報化社会とよばれる。大量の情報が生み出され蓄積され伝搬する。そしてそれを担うのはコンピューターである。
スマホは脳の一部みたいなものである。記憶、計算、情報処理を脳の外部に持ち出したものである。脳みそだけで記憶できないものはスマホに保存したらよい。思考に行き詰まったらスマホに考えてもらえばよい。
スマホを開けば、他人の思考、生活、記憶が簡単に覗き見ることができる。Instagram、Xを開いては、誰かの生活にうらやましい気持ちになって、自分もやってみようだとか、この服ほしいだとかという気持ちになる。自分の意思なんてものは他人によって簡単に書き換えられる。好きな人が好きなものは自分も好きになってしまう。
ちょうど今週末(2024年10月26日)に衆議院選挙が控えているが、どれくらい自分で候補者を選んでいるだろうか。SNSで自民党のネガティブキャンペーンを見たから自民党に投票しないとか、自分の推しの芸能人がある政党を応援しているからその党に投票するとかそういったことは、とてもありふれたことだ。
そして、このような他人の意見は自分が見たいか見たくないかに関わらず、スマホを開けば勝手に脳に入り込んでくる。それはスマホだけではない。テレビを見ていたってそうだし、鉄道にのれば、嫌でも中吊り広告をみる。一度でよいから、大阪メトロ(旧大阪市営地下鉄)を利用してみたまえ。怒涛の車内アナウンスに耳を殴られる。毎日地下鉄を利用している人は確実に情報が刷り込まれているはずだ。だから自分だけの考えなんてものは自分の脳内を探してみると意外と少ないことに気づく。
自分の意思にかかわらず、勝手に他人の情報が入り込んでくる時代。そんな時代だからこそ、自分とは何かが再び広く意識されるようになったのではないか。
私の好きな俳句に与謝蕪村の『春の海終日のたりのたりかな』というものがある。この俳句は私の頭の中に住み着いている。与謝蕪村の俳句だが、好きで何度も思い出しているので、感覚としてはもはや自分の身体の一部である。この俳句は私にとって完全に混じりあっていて完全に独立している。この俳句は果たして自分の言葉といえるだろうか。そもそも、「言葉」なんてものはもともと自分の身体の中にあったのだろうか。子供のころに言語を(外の世界から)習得して使っているのだとしたら、言葉の中に自分は見つからない。このような疑問に対して朝比奈秋は『サンショウウオの四十九日』で次のように考えている。
自分の体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。思考も記憶も感情もそうだ。
つまり、初めから自分だけの考えなどないと主張している。すべての思考、記憶、感情に自分のものだと名札をつけることはできない。朝比奈秋は一つの体にふたりの人間がいる結合性双生児を思考実験にしてそう考える。体を共有している者にとっては自分だけの思考、記憶、感情が存在しないのはあたりまえで、片方が思索に耽っていると、もう片方も引っ張られて頭が働いてしまう。
一見受け入れがたい主張であるが、一つの身体に一つの意識を持つ私たちもそうなのではないか。怒っている人が近くにいれば、自分もなんだかイライラするし、誰かに笑顔であいさつされたら、こっちも笑顔であいさつしてしまう。『サンショウウオの四十九日』にでてくる杏と瞬はくっつきすぎたため自分だけの思考、記憶、感情がないことが明瞭に思われたのだろうけれど、体を共有しない私たちにとっても同じことなのではないか。
では私とは何なのか。朝比奈秋はこの本で結論をださない。おそらく、作者自身もわかってはいないのだろう。私について考えるとき、『春の海終日のたりのたりかな』の時と同じように、自分と混ざり合っているのだけど独立しているという矛盾を矛盾なく呑み込めてしまう。だからきっと答えは出ない。