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朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』を読んで【基礎教養部】
朝比奈秋さんの『サンショウウオの四十九日』を読みました。その感想です。
なぜオオサンショウウオなのか?
本のタイトルにもなっているサンショウウオ。本書を読んで最も疑問に思ったのが、なぜ杏は陰陽図を見たときに魚ではなくサンショウウオだと思ったのか。初めて杏がこの図を見たとき
「陰陽魚という別名もあって、たしかに二匹の魚の様にも見えますよね」
という説明を聞いて、魚というよりはオオサンショウウオに見えてくる。と感じている。陰陽魚という説明までしてなぜわざわざサンショウウオに変えたのだろうか。魚のままじゃ駄目だったのだろうか。タイトルにもなっているのでこれは重要なはずで、魚ではなくサンショウウに変えなければならない理由があったのではないかと思う。
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この陰陽図は杏と瞬の比喩として書かれている。また、本の後半では伯父の勝彦と父の若彦の比喩としても書かれている。つまり、杏と瞬の関係、勝彦と若彦の関係にサンショウウオの要素があるということになる。
私の中に瞬が生まれて、瞬の中に私が生まれる、それがどういうことなのかを考えるたびに頭の中でサンショウウオが育っていった。私が黒サンショウウオで瞬が白サンショウウオ。くるくる回れば一つになる、二人で一つの陰陽魚
魚になくてサンショウウオにある特性は変態することである。オオサンショウウオは卵から孵化した後、幼生の段階では外鰓をもち鰓呼吸をして水中で生活する。この段階ではまだ脚も生えていない。しかし成長するにつれて脚が生えてきて、外鰓が消失し、肺と皮膚で呼吸をするようになる。簡単に言えば、小さい頃と大きい頃で姿が変わってしまうということである。
果たして小さい頃と大きい頃で両者は同じ生き物だといえるだろうか。
変態の極端な例はチョウである。幼虫の毛虫と成虫のチョウでは全く異なる生態を持つ。幼虫は植物の葉を食べるが、成虫は花の蜜を食べ物にする。蛹の段階で姿形だけでなく体内の消化器官からまるっきり作り替える。これに関して幼虫の中にチョウが居るという見方ができる。もしくはチョウの中に幼虫がいるという見方ができる。一つの身体の中に、複数の「いきもの」が同居している。サンショウウオはチョウほど変化の度合いが顕著ではないが、変態にはこういう特性がある。このサンショウウオの特性はまさしく同じ一つの身体を共有する杏と瞬との関係であり、身体の中に若彦を宿していた勝彦と若彦の境遇に対応する。このような理由から、陰陽図は魚ではなくてサンショウウオとして表現されたのだと考える。
死とは
瞬は意識は全ての臓器から独立していると考えている。意識は脳からも独立しており、思考や感情や本能からも独立しているという。結合性双生児として生まれ、一つの人間の体を杏と共有している瞬は、杏の思考が勝手に流れてくることや、喉が腫れると痛みを共有してしまうことから経験的にそう判断する。
自分の身体は他人のものでは決してないが、同じくらい自分のものでもない。思考も記憶も感情もそうだ。そんな当然のことが、単生児たちには自分の体で持って体験できないから、わからない。
現代では脳死が死と定義されている。これは突き詰めればややこしいので、ここではとりあえず脳が破壊された状態ということにしておく。瞬はこれとは異なる死を体験する。瞬は眠りに落ちた後、自分の意識が澄んでいることに気づく。しかし、体の感覚がない。自分が呼吸をしていない。どこも脈を売っていなくて、温かさも寒さも心臓の音も聞こえない。身体の音が聞こえない。その状態になり、瞬は自分が死んでいるのだと直感する。つまり瞬は意識と身体の接続が切れたときに死を感じた。それもそのはずである。感覚器官からの入力がなければ、末梢器官なんてものはただの重たい塊である。
死んでも、意識は続く。死が主観的に体験できない客観的な事実で、本当に恐るべきは肉体の死ではなく意識の死ならば、どういったことで意識は死を迎えるだろうか。大きな疑問が込み上がってくる。意識はなんなのか。私とは違うものなのか。死んでも続く意識を絶命に至らしめるものはなんなのか。意識が意識自体を疑ったとき?すると、巨大な穴に落ちるような感覚が起こって私は思わず胸元に本を引き寄せた。
なぜ瞬は意識が意識自体を疑ったとき意識は絶命すると疑ったのか。それは意識が意識を考えるのは矛盾が生じるからだ。これを自己言及性の矛盾という。瞬は意識が脳を含む全ての臓器から独立していると考えた。では、意識を意識しているのは誰か。そしてそれを意識しているのは…ということである。