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“The Awakening” Kate Chopin
フェミニスト文学の先駆けのように言われているようだが、私にとっては“昼ドラin上流階級”である。といってけなしているのではない。時々無性にページをめくってみたくなる、密かなお気に入りだ。
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エドナ・ポンテリエは裕福な主婦。まだ若く美しく、絵を描くのが趣味で、2人の子供がいるが子供の世話にかまけるよりも自分の時間を優先する生活を送っている。
その夏、ポンテリエ一家はグランド・アイル島の数軒のコテージからなる別荘地に滞在していた。そこでは近郊のニューオリンズに住む裕福な人々が、コテージを借りて一夏を過ごしているのである。
母屋には、別荘のオーナーであるルブラン夫人と息子達。そしてコテージ群にポンテリエ家、ラティニョール家、オールドミスのピアニストのライズ嬢。。。ニューオーリンズの町でも馴染み同士の彼らは、昼は海水浴をしたり夜は母屋での晩餐会を楽しんだりと、享楽的な生活を楽しんでいる。
The lamps were fixed at intervals against the wall, encircling the whole room. Some one had gathered orange and lemon branches, and with these fashioned graceful festoons between.
ランプが間を置いて壁に並び、部屋を取り囲んでいた。誰かがオレンジとレモンの枝を集めてきて、優美な花綱にしてランプの間を飾っていた。(ヨンデラ訳)
美しく飾られたホールに集う人々。子供達はアイスクリームをもらい、ダンスやピアノを披露する。大人達は稚拙な演奏に耐えつつ、うわさ話に花を咲かせる。典型的な上流階級の生活だ。
幸福と豊かさは揺るぎなく、心配することはなにもない。そんな毎日を送るエドナだが、彼女の崇拝者であるロバート(別荘主の息子)がある日突然思い立ってメキシコに行ってしまったことで、心の安定が崩れたことに気づく。
Robert’s going had some way taken the brightness, the color, the meaning out of everything. The conditions of her life were in no way changed, but her whole existence was dulled, like a faded garment which seems to be no longer worth wearing.
ロバートが行ってしまったことで、全てのものから光や色や意味が失われたようだった。彼女の生活は何も変わっていないのに、彼女の全存在は、もはや着る価値のない服のように色彩を失ってしまった。(ヨンデラ訳)
そうして夏が終わり、ポンテリエ一家は町に帰るのだが、ニューオーリンズでの普段の生活に戻っても、エドナの気持ちは落ち着かないままだった。
夫が仕事に行っている間は家に留まり、きれいな服を着て、毎日のように訪れる訪問客をもてなす。週に何日かは夫と観劇に出かける。
そんな一見優雅なものの窮屈な籠の鳥のような生活への反発が彼女の心に芽生え、膨らんでいく。
友人のラティニヨール夫人の穏やかで完璧な家庭生活を見てもむしろ憐れみを感じてしまうようになった彼女は、いよいよ、立派な主婦でいようという努力をやめ、自分の好きなように行動するようになる。
来客のために家に留まっているのをやめ、気ままに外出したり、アトリエにこもって絵を描いたり。
“becoming herself”(自分自身になりはじめた)彼女だが、その心の中で熱を持ち続けているのは、メキシコに行ったロバートへの想いだった。
ロバートへの想いを募らせる一方で、新しく出会ったプレイボーイに欲望が生まれるなど、女としての新しい自分を目覚め(awaken)させたエドナは、行動もより大胆になり、家族の家を出て小さな家に移り住み、母親からの仕送りと絵の売り上げで生活してみようと思い立つ。。。
裕福な夫の庇護(=支配)の下、家庭に押し込められていた妻が、自我を覚醒させて一人の女性として欲求を奔放に解き放っていく、という内容と捉えれば確かにフェミニズム的なのだが、読んだ印象ではそんなに気骨のあるものではない。
エドナの言動は甘やかされた娘の駄々っ子のようだし、恋愛にしても子供のお遊びの域を出ない。確かに彼女は内省的で悩みがちなところはあるのだが、それにしては行動が唐突で軽い。
極め付けは「自立のための家出」である。家庭を飛び出した彼女の新居は、自宅の角を曲がったすぐそこなのだ。ただの趣味のための離れではないか。しかも家を出る前には知人を招いてお別れの夕食会を開くというお祭り騒ぎで、彼女の思い詰めた真剣さと贅沢なお戯れ感のチグハグ具合といったらない。
Oh! it will be very fine; all my best of everything—crystal, silver and gold, Sèvres, flowers, music, and champagne to swim in. I’ll let Léonce pay the bills. I wonder what he’ll say when he sees the bills.
ああ!とっても素敵になるわ、全て最高のものにするの──クリスタルに、銀と金、セーブル、花、音楽、それから大量のシャンパンね。支払いはレオンスにさせるわ。請求書を見たら彼なんて言うでしょう。(ヨンデラ訳)
レオンス=夫である。。。
何にしろ切羽詰まった悲壮感がないのだ。リッチなマダムのための昼ドラ以外の何物でもない。そしてそれが、私がこの小説を愛する理由である。
過去にどこかに存在した、悩みのない楽しげな世界の、空虚な美しさ。そんな世界でのヒロインの、突飛で軽やか(本人は深刻)な自我の目覚め。情動的なヒロインと美しい情景を愛でる、豪勢な砂糖菓子のような読書もたまにはいい。
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・・・ということで、私はこの小説を典雅なメロドラマとして楽しんでしまうのだが、実はこの小説のラストは衝撃的なものであり、悲痛な結末という解釈が大概はなされているようだ。ただ、別の穏やかな解釈も不可能ではないラストであり、私は全体を楽しんだ後での帰結として、悲痛より穏やかなものを選びたい。フェミニズム風味のドラマとして読むか、妻/母という枠にはめられる女性の苦しみという視点で読み解くかで、結末の捉え方が変わるのかもしれない。どう解釈するにせよ、幻想的で美しく、素晴らしいラストシーンであることは確かだ。
日本語訳は『目覚め』という題名で出されている。
作者の名前はショパンだし(音楽家とは特に関係はなさそう)、作中にショパンの曲も何度も登場するのだが、私がBGMに選びたいのはベルリオーズだ。激情ロマンチックということで。