【まいにち小説】初雪
クラスの人間関係にストレスを感じて不登校になったわたしは、認知症のおばあちゃんの介護を任せられた。
おばあちゃんが認知症になってからわたしは彼女のことが大嫌いだった。認知症のせいで失礼な発言や配慮に欠けた行動が増えたし、おばあちゃんがまるでおばあちゃんじゃないみたいで嫌だ。
昔のおばあちゃんはとても優しい人で、まさに憧れの的だった。彼女は大きな壁を何度も何度も乗り越えてきて、とにかく人生経験が豊富だ。だから相談事はどんなものでも真剣に聞いてくれて、ときにはしっかりと叱ってくれることもあった。そんなおばあちゃんのことが大好きだったわたしは、物心がつく前からおばあちゃんっ子で、いつも彼女の温かい腕の中にいた。
しかし今では、相談事を持ちかけても「自分の力で解決しなさい。ずっと大人に頼ってばかりだと、まともな人間にならないよ」と冷たく返されてしまって聞いてくれやしない。前までは、おばあちゃんの方から「うんうん、それでどうしたの?」と優しい笑みを浮かべて訊いてくれていたのに。人格がすっかり変わってしまって、悲しい。もうあの頃のおばあちゃんは戻って来ないのだ。
今日もそんなことを考えながら、慣れた手つきでおばあちゃんの介護をする。自分の食事時間を削り、おばあちゃんの食事を手伝う。認知症によって食べ物をいっぱい口に詰め込んで早食いしてしまうことがあるため、小皿に少しずつ分けて少量ずつ食べさせなければならない。
「あんた、掃除はしたのかい!? さっき床にゴミがたくさん落ちてたよ。これじゃあ、社会人になったときに困るわねー」
突然、感情が変化するのも症状の一つ。
たしかに掃除はしていないけれど、そこまで言わなくていいじゃんと思う。煽るように言われたら、逆に腹が立って仕方がない。
もちろん認知症ということは分かってはいるけれど、どうしても一人の人間として見てしまう。
苛立ちを抑えるため、気分転換にテレビをつけた。小さなテレビ画面に映ったのは、空から降ってくる白い雪。ニュースのアナウンサーは「初雪観測」だと言った。
ふと、後ろを振り返って大きな窓のカーテンを開くと、細々とした小さな雪がまるで妖精のように宙を舞っていた。
「あらまあ、初雪かい?」
「うん」
わたしたちはその美しさに魅了され、しばらく白い光景に夢中になっていた。
「今日ってあんたの誕生日?」
「え、もう過ぎたけど」
まさかわたしの誕生日まで忘れたというのか。たしかに今年の誕生日はおばあちゃんに祝ってもらえなかった。心のどこかで悲しんでいる自分がいる気がするけれど、でもおばあちゃんはもうおばあちゃんではない。だから、そんなにショックじゃなかった。もう、他人のような存在だ。
おばあちゃんは、ふうん、と適当に相槌を打って、また窓の向こうを眺めた。
「あんたが生まれた日もこんな感じだった。たぶん初雪が観測された日だったんだろうね。だからあたしは、あんたに小雪(こゆき)って名付けたのかもしれない。でももう覚えてないな」
その話は過去に何度か聞いたことがある。まだおばあちゃんが認知症を発症していなかったころ、幼いわたしを抱きながら優しい声でそう話してくれた。思い出して、心の奥がきゅっと締めつけられる。わたしの頭の中にいる二人のおばあちゃんは同一人物で、おばあちゃんはわたしに素敵な名前をくれた。今、目の前にいるおばあちゃんはわたしの大好き「だった」人。ではなくて、大好きな人なのだ。あの思い出もこの思い出もその思い出も、すべてこの人と一緒に創り上げてきた。
「......わたし、この名前大好きだよ」
思わず、涙がこぼれる。わたしは今まで大切な人になんて酷い扱いをしてきたのだろうか。
おばあちゃんは静かに泣くわたしをそっと抱きしめて「それはよかった」と囁いた。そのおばあちゃんの温もりは、あのころ感じていたものとまったく同じ、優しい優しい愛情だった。初雪がひらひらと舞う中、わたしの凍りついていた心はおばあちゃんの温かい陽だまりによって溶かされていった。
そのちょうど翌年、おばあちゃんはわたしが生まれた総合病院の中で亡くなった。わたしが買い出しに行っている間、勝手に外へ出かけてしまったおばあちゃんは信号無視をしてしまい、そのまま大型トラックに跳ねられたのだ。
介護が終わる嬉しさと、わたしを心から愛してくれていた人が消えた寂しさ。どっちの感情に寄り添えばいいのかが分からない。喜んでいいのだろうか、それとも悲しむのが正解なのだろうか。
複雑な気持ちを抱きながら病院を出ると、そこには真っ白な景色が広がっていた。小さな雪が弱い風に吹かれて舞っている──初雪だ。今年もこの日がやって来た。だけど、隣におばあちゃんはいない。おばあちゃんの優しい温もりはどこにもない。
おばあちゃんと一緒に初雪を眺めた過去を思い返す。毎年、おばあちゃんはわたしを優しく抱きしめて、名前の由来について話してくれる。
「おばあちゃん、今年も聞かせてよ......」
しかし声は何も返ってこない。いつものことなら返ってくるはずなのに。どんなに荒い口調をしてでも何か言ってくれるのに。──わたしは幸せ者だった。そう気付いて、大量の涙をこぼす。冷たい涙が顔を伝っても、やはりおばあちゃんはもうわたしのことを抱きしめてくれない。
おばあちゃんはもういないのだと、幼児のように泣きじゃくっていると、「小雪」と呼ぶひとつの声が、初雪に溶け込んでわたしの耳に優しく響いた。