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[読書の記録] 田中康夫『なんとなく、クリスタル』&『33年後のなんとなく、クリスタル』(2015.03.04読了)

『33年後のなんとなく、クリスタル』(田中康夫 2014)

 シレっと出ていた新装版「なんとなく、クリスタル」(例のフリーダムな注釈が新しくなっている)とともに読んだ。

 1980年に出版された「なんとなく、クリスタル」(以下なんクリ)は、今でも世代論が好きな文科系人間たちの間では鉄板の話ネタであり、恥ずかしながらこの歳まで一度も読んだことがなかった私でも大体の内容や特徴は”なんとなく”知っていた。(注※ この感想文は2015年3月に書かれており当時私は27歳だった)
 この小説はカタログとかスイーツとか何かと揶揄されるのが常だが、実際に読んでみてまず感じたのは、筆者の溢れんばかりの東京への愛である。まずもって、とてもアーベイン*な作品なのだ。しかもそれは単純なスノッベリー*ではなく、註の端々からは地方出身の康夫氏ならではの、都市風俗への再帰的な諧謔も読み取れる。

*アーベイン urbane 都会的な
*スノッベリー snobbery ドヤ顔

 ファスト風土論だとかマイルドヤンキー論だとかが全盛の、カルチャーの重心の置き場という意味で都市が完全に相対化された現在では考えられないような若者像が描かれている。ところで余談かつあくまで仮説だが、なんクリで康夫氏が示してセンセーションを巻き起こしたバブル前夜~バブル期の若者像があまりに強烈過ぎて、そこから若者像を更新できなくなっているのが村上春樹なのではないか?だから春樹の若者像はいつまでも古いのでは?
 いずれにせよ、都市と地方の関係がまったく違った時代についての歴史的教養として、時代を超えて読まれるべき書である。

 そのうえで、33年後~を読むと、ジワジワと「時間」というテーマが浮かび上がってくる。
 そう、康夫氏は春樹と違い、知りもしない現代の若者を無理に主人公にした小説を書かないところがエライのだ。あくまで自分と等身大の人物の視点から今の浮世を描いている。極めて私小説というか、エッセイに近い作品となっている(実際に田中康夫本人が、ヤスオとして登場する仕掛けには笑った)。33年前と同じ登場人物が、同時代の東京に生きる姿を読むのは、なかなか強烈な文学体験だ。康夫やりおるなぁ。
 なんクリが表象していた1980年代のポストモダン状況=記号的装飾ばかりに満ちたクリスタルな消費文化を経由して、日本人は大きな物語を失ったように見えた。しかし、それでも各個人の人生は続いていた。。

 元クリたちは、好景気極まりない80年の東京で享楽的な刹那を生き、自身の精神に何ら物語など内在させていなかった。少なくともそのように見えた。この、「物語の不在」こそがなんクリの文学的な新規性だった。しかし時間が経てば、そんな彼らの人生にもおのずと物語らしきものは立ち現れる、というのがメッセージなのか。いっぽうで、どんなに時間が経ってもクリスタルな精神性だけは変わらない、ということだろうか。

 こういったメッセージを表現するうえで、本作で特徴的なケータイ小説風の文体は最適な形式に思えてくる。康夫氏は常に文学によって文学そのものを批評し続ける、イノベーティブな書き手なのであった。

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