[読書の記録]ロン・バーガー『子どもの誇りに灯をともす――誰もが探究して学びあうクラフトマンシップの文化をつくる』(2023.3.29読了)
今年3月に邦訳が刊行されたロン・バーガーの『子どもの誇りに灯をともす――誰もが探究して学びあうクラフトマンシップの文化をつくる』(原題:An Ethic of Excellence: Building a Culture of Craftsmanship in Schools)は、現代の教育現場が直面する困難に応答しようとする、重要な実践に関する書物だ。
エクセレンスの探求
本書はとりわけ、著者が「エクセレンス」と呼ぶ、質の高さを追い求める教室と学校の文化の醸成について検討している。エクセレンスは、学力テストの結果に代表されるような、生徒の能力と教育の質を評価する定型的かつ定量的な指標が往々にして見落としてしまう、さまざまな「善さ」を救い出す。
もっとも、学力テストだけが問題なのではない。学力テストはむしろ、文教政策に関わる行政官や教育産業界のビジネスパーソン、投資家などから成る、学校を取り巻く複雑な生態系の中で、依って立つべき価値尺度を見失った教育者と生徒たちの行動をひとつの方向に向かわせたに過ぎない。日本では文部科学省が定める教育指導要領に法的拘束力があり、学校の授業や教科書の記述は学習指導要領に準拠しなければならないことになっている。これにより、学校がそれぞれ、通ってくる生徒や周辺地域の実情を考慮して、どういった知識や技能が身につくようにするか、また年間を通じてどういった学校行事を行うかといった教育課程を決めることはかなわなくなっている。ましてや全国統一テストが、生徒個々人の価値や生き方の選択を支えるものになりえないのは、言うまでもない。
なおバーガー自身は、決してテストの点数を軽視しているわけではなく、テストで測られるようなアカデミックな能力の涵養にこそ、文化が重要なのだという立場をとる。
大げさになったが、こうしたことを念頭におけば、本書におけるバーガーの努力をだれもが歓迎するはずだ。彼は、トップダウンで振り下ろされる指導要領や評価指標を乗り越える可能性を持つ尺度として、エクセレンスを提案する。バーガーは、率直にこう述べる。
なぜ文化なのか。ドラッカーとの比較
「文化こそが鍵なのだ」という記述を目にして、ピーター・ドラッカーの「文化は戦略に勝る」(Culture eats strategy for breakfast.)という言葉を連想するのは容易い。最も有名な経営学者のひとりであり、独創的な思想家でもあるドラッカーは、企業がそれぞれ有している組織文化、つまり構成員が共有する価値観と行動様式こそが、企業の未来を左右すると説いた。企業がいかに優れた戦略を立て、競争上優位な地位を築く見通しが立っていたとしても、優れた組織文化が醸成されていなければ実際に従業員の行動の変容や戦略の効果的な実行には繋がらない、というのが「戦略に勝る」ということの意味だ。そして多くの場合、組織文化の成熟度や優位性は、定量的な指標で計測することが難しい。
不勉強ゆえ、バーガーがドラッカーを直接参照しているかはわからないが、変化をもたらすうえで最も重要な要素は数値で計測できないことを主張している点において、両者は強く共鳴している。さらに両者は、組織の目標達成と、個人の能力開発・欲求充足の止揚という共通の課題をもっており、どちらもチームとしての成果を高めること(バーガーの言葉では「美しい作品」をつくること)についての問いを、自身の仕事を展開する出発点にしている。
しかしこうした共通点にくわえて、ふたりには根本的なちがいもある。ドラッカーの仕事は、競争相手が容易に真似ができない優位性の構築という、いわば差異の創出を追求するものだが、バーガーの仕事の中心には、エクセレンスという普遍の形象がある。バーガーは、文化を育てることが個人の行動の変容にとって大切だという一般的な命題に加え、あらゆる教育現場が採用可能な価値観の統合について考えようとしている。
批評の大切さ
バーガーのこの取り組みは、伝統的な教室の概念を止揚することを課題としている。つまり「講義」「教科書」「市販のワークシート」が象徴するような、画一的で一方向的なコミュニケーションを中心とした教室のあり方から、「工具」「画材」「自作の本」「建築図面」「生徒たちの作品」等で満たされた、様々な創造的プロセスが並行して走りながら、常に双方向的なレビューが行われているような空間への移行である。
特にバーガーは、生徒たちの間で批評の習慣と能力を涵養することの重要性を繰り返し強調する。彼はサイエンス・フェアと読書プロジェクトを例として取り上げながら、グロテスクなまでの筆致で、いかに従前のカリキュラムに取り入れられてきた「プロジェクトのように見えるもの」が、ただ無意味なだけでなく、生徒たちの自尊心を傷つけるものであるかを淡々と記述し、読者に共感性羞恥らしき感情を惹起する(109-111頁)。日本の文脈で言えば、多くの元・小学生が、一度作ってしまえば誰からも顧みられることは無い、図画工作の授業での制作物や夏休みの自由研究の成果を下校中に道端に投げ捨てた経験に思い至るのではないだろうか。
バーガーは生徒が、自らが作った作品を完成後、然るべき評価を加えられる関係者や専門家に対してプレゼンテーションすることを標準とするだけでなく、その後も学校のキャンパスのあちこちに展示しておいて、生徒同士がお互いに批評を加えられるようにする環境づくりを推奨する。それは、価値があると自身が感じられるプロジェクトに取り組むことが、生徒の自尊心を育む唯一の方法だという考えに基づく。
また、制作の過程においても、作品の草案に対して加えられる批評の内容を踏まえて、作品の質を高める努力を不断に行うことが重要であるという。もっとも、批評を行う際には、建設的なコミュニケーションになるよう、ふさわしい語彙を身に着けておくことが前提となる。
本書でバーガーが行う提案は、日本で平凡な初等中等教育を受けて育った人間からすればどれもアクロバティックに感じられるものだが、中でもこの、批評に重きを置くという価値基準や、生徒同士に批評させあうという仕組みは、わが国の指導要領の標準からは最も遠い、あるいは現場への導入が最もしづらいのではないか。国語のテストといえば、著者や出題者の「(お)考え」「(お)気持ち」を察せよという出題ばかりがされる世界である。作者と作品の関わりにおいて、第三者の批評の価値が貴ばれることなど望むべくもない。
しかし実際には、批評や観客の存在は、作者の意図ないし、言葉の最低な意味におけるお気持ちなどよりも作品の価値にとってはるかに重要である。批評は作品が持っていた、作者ですら気づかなかった可能性を救い出すことで、その価値の地平を広げる。自分の作品を批評に向けて開くということは、「実際にはそうはならなかったが、かくありえた作品」に思いを馳せることであり、すなわち、あえて月並みな表現をすれば、主観世界にまだ見ぬ他者を迎え入れることでもある。
そして、批評を受け入れ、自身やチームの仕事の質を高めるために活用していく資質は、学校を卒業し、社会で働き始めてからこそ、その真価を発揮するだろう。
上に引いた箇所からも、「社会に役立つ」人を育てることがバーガーの教育哲学のゴールであることは明らかだ。
さて、企業や行政機関において、多くの仕事はプロジェクト形式で進み、各人はメンバーとしてそれぞれの職能を持ってプロジェクトの成功に貢献することを期待される。その過程では、ミーティングに持ち寄った個人の成果に対して否定的なフィードバックが行われることもあるだろう。いや、むしろ現代の職場では時間的な制約の中で生産を最大化することが求められる度合いが高いほど、効率的なコミュニケーションのため、会議の時点で「有る」ことを称賛することに時間は割かれず、その場に「無い」ことだけを指摘する会話が量としては多くなる傾向にある。フィードバックとはこのようにして足りないこと、至らないことの指摘の羅列となる。いわゆる「詰め」である。プロジェクトベースの働き方にどれくらい慣れているかや、メンバーとの関係にも依存するが、これを個人としての能力や人格の否定と受け取ってしまい、気を病んだり下手をすると職場を離れてしまう労働者は多い。他者からの批評を攻撃ではなく、作品=プロジェクトチームとしての仕事の成果の質を高めるための生産的な営為なのだと解する能力を、働き始める時点で備えていることの価値は計り知れない。
創作における模倣の重視
バーガーが導入を提案する「プロジェクト」の内容は、地元の町を流れる川の水質調査からお年寄りの評伝づくりまで多岐にわたっており、目指すべき「美しい作品」が指すところは絵画や彫刻には限定されない。しかしながら、書名にクラフトマンシップという言葉が使われていることからも明らかなように、彼はやはり狭い意味での美術や工芸には特に強い愛着があると思われる。彼は、師(?)であるスティーブ・サイデルを引きながら、あまねく人間の本性の中には美しい創作を行いたいという心の働きがあるのだという立場をとる。
創作に取り組むうえで、バーガーは安易にオリジナリティの追及を推奨しない。代わりにトリビュート・ワークという、先行する作品を積極的に参照あるいは模倣するようなものづくりのあり方を紹介している。真似ることや似せることを意味する英語のmimicが、芸術作品を作ることを意味する古代ギリシャ語のmīmēsisと同源であることからも明らかなように、創作の本質は既存作品の模倣である。創作とは過去に作られた類似する作品との対話なのであって、参照を行うことを通じて、作り手は歴史にコミットすることになる。バーガーが、生徒が自身の作品を作る際に参考にできるようなモデルを探し集めることになみなみならない情熱を注ぐのは、模倣としての作品づくりの様相に理解があり、深く同意しているからにほかならないだろう。
共同体主義の問題点
自他ともに価値があると認めるほどの質の高いプロジェクトに取り組み、美しい作品を作り上げることを生徒たちに促し、実現させるのはもちろん簡単ではない。
バーガーは特に、このような学びを可能にするうえでの環境面での制約条件として、地域コミュニティの関与を強調する。生徒が取り組むプロジェクトは学校が位置する行政区の庁舎の設計であったり、有毒な気体の濃度分布をプロットした市内図の作成であったりする。さらに、生徒がプロジェクトを進行するうえでのアドバイザーや、最終的な作品のレビュワーとして地元の専門家が動員されたりもするため、学校としては地域社会との協力関係の構築が不可欠となる。そうした地域の大人たちと緊密に協働する中で、生徒には礼儀正しく人と接し、自分が望む情報や意見を引き出すスキルを身に着けることも期待される。それは「社会に役立つ」人間を作ることに繋がり、有形無形の資源を供して教育に協力した地域コミュニティに対して価値が還元される。
また、学校の外だけでなく、学校の中にも、真剣に学習に取り組むこと称えあうコミュニティを作ることが重要であるという。これはほぼ文化を育てることと同義だが、バーガーは誰も落伍せずプロジェクトに真剣に向き合うよう、「ピア・プレッシャーの前向きな活用」さえも提案する。
こうして彼の生徒たちの活動は、学びの出発点となる教室の中と、学校を取り巻く地域の両方において共通善となる価値を生み出すものとなる。つまるところバーガーが言うエクセレンスとは、このあいまいな共通善が止揚されたもののように思える。
政治思想としての共同体主義は旧来の保守とリベラルの対立を乗り越える立脚点として提案されており、論駁が難しいが、問題がないわけではない。
アマルティア・センはオックスフォード大での講義を元にした著作『アイデンティティに先行する理性』で、個人を自己中心的な孤島とみなす考えは避けて当然であり、社会的アイデンティティが人間の行動に重要な影響を及ぼしていることは確かであると述べた。また、コミュニティへの帰属意識や仲間意識が、我々にとって大切なものだという信念も無視できないものであると認めながらも、コミュニティは、常に集団のアイデンティティにおける多元性や、合理的な選択・判断を毀損する危険性があると指摘する。それはひいては、暴力や野蛮のみならず、今も昔も変わらず抑圧を生み出し続ける可能性がある。さらにセンは、違った文化を認知的・道徳的な孤島として扱う共同体主義の傾向に懐疑の目を向け、我々の様々なアイデンティティを論じるうえでは、もっと合理的な選択と判断の余地を設けておかなければならないと論じる。
この議論を敷衍すると、コミュニティを重視するバーガーの教育哲学に沿って学習し、エクセレンスを追い求める道徳を共有した学友と、緊密な協働関係にある地域社会の中で育った生徒たちが、そのような教育を受けていない個人や集団との連帯において合理的な判断ができるのか、吟味の必要性が示唆される。また、バーガーがピア・プレッシャーの効能に意識的であることを思い起こせば、学内外のコミュニティが生み出す大小の抑圧の弊害についても検討すべきである。
バーガーは、本書において示されているようなプロジェクトベースの学習に参加し、美しい作品を生み出している生徒たちが、いかに多様な家庭環境や社会階層や人種に出自を持っているかや、中には学習障害を持っている者も含まれているといった、教室内の多様性を示す事実を繰り返し強調することで、リベラルな、もしくはいわゆる"woke"な論客からの批判を回避している。また既にみたように、批評を重視しており、他者に対して自分を開いていくことを励行する。このことから、彼が考えるコミュニティの理想像が、さまざまな価値観に対して包摂的なものであることは明らかだ。ところが、本書内のかしこで見られるバーガーの次のような言明はむしろ保守サイドにとって望ましい人間像の称揚に繋がる可能性がある。
ここでの「良い市民」とは、イデオロギーに基づく社会の変革や国の政策による福利厚生の充実に頼らず、規律と従順とコミュニティの価値を重んじ、家庭や学校、地域社会など、自分から近い範囲の人間との連帯を重視する人を指しているのではないか。上段で確認した通り、バーガーは「社会に役立つ」人を育てることを一義的は重視している。しかしここでの「社会」の射程は実は限定的なのではないか。
また、教育が実践される場を、地域コミュニティにまで拡張して認識する流れは、最終的には学校そのものの否定につながるだろう。