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自分の自由にならないことについては、善いも悪いもない【超訳】自省録12日目

・今日の超訳

自分に選択の自由がないものについて、善いとか悪いとか考えると、結局失敗したときに他者とろくでもないもめ事を起こしてしまう可能性がある。善悪について考えるのは自分の自由が利く範囲においてのみであり、それ以外においては善悪を考えず、事実を事実としてのみを受け止めよ。

・引用原文(第6巻41章より)

「自分の選択の自由のないものについて、これは自分にとって善いとか悪いとか考えるとすれば、こんなに悪いことが身にふりかかったとか、こんなに善いことが失敗したとかいって、君はきっと神々にたいして呟かずにはいないだろう。また他人がこの失敗や災難の責任者であるといって、またはその嫌疑があるといって、人間を憎まずにはいないであろう。まったくこのようなことを重大視することによって我々は実に多くの不正を犯してしまうのである。しかるにもし我々が自分の自由になることのみを善いとか悪いとか判断するならば、神々に罪を被せる理由もなく、人間にたいして敵の立場を取る理由はもはや残されていないのである」               岩波文庫 神谷美恵子訳 自省録より

・ちょこっと解説

・合わせて考えたいのは、自省録の第4巻7章である。マルクス・アウレリウスは同章にて下記のように述べている。

「「自分は損害を受けた」という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれてしまう。「自分は損害を受けた」という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう」         岩波文庫 神谷美恵子訳 自省録より

・自分ではどうにもならないことについて、損害を受けた。これは善悪二元論で考えるのであれば、悪の部類である。しかしマルクス・アウレリウスは「自分は損害を受けていない」と思えば、損害に対する感情は消え、損害自体もなくなると考えている。また、同章で同じ文を2回繰り返しているのは、それだけ本人が重要視していたことなのだろう。(小生のミスではないです)

・とてつもないマゾスティックな考え方であるが、これはリーダーが部下の前で取り乱すことがないようようにするため、また、感情に流されず客観的な戦略的・戦術的判断を下すためには絶対に必要なことだと思う。この考え方は、心に刻んでおくべし。

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