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より良い人間であろうとする努力を放棄してはならない【超訳】自省録5日目
・今日の超訳
頭の切れは、生まれ持っての才能だ。しかし人間として素晴らしい徳や精神というものは、生まれ持っての才能の問題ではなく、やるかやらないかの問題だ。生まれつきの能力のせいにして、より良い人間であろうとする努力を放棄してはならない。
また、頭の切れの悪さに関しても、生まれ持ってのものだから仕方ないということにはならず、魯鈍と罵られても、修養することに努めなければならない。
・引用原文(第5巻5章より)
「君の頭の鋭さは人が感心しうるほどのものではない。よろしい。しかし『私はうまれつきそんな才能を持ち合わせていない』と、君が言う訳にはいかないものがほかに沢山ある。それを発揮せよ、なぜならそれはみな君次第なのだから。たとえば誠実、謹厳、忍苦、享楽的でないこと、運命に対して嘆かぬこと、寡欲、親切、自由、単純、真面目、高邁な精神。今すでに君がどれだけ沢山の徳を発揮しうるかを自覚しないのか。こういう徳に関しては生まれつきそういう能力を持っていないとか、適していないとか言い逃れをするわけにはいかないのだ。それなのに君はなお、自ら甘んじて低いところに留まっているのか。それとも君は生まれつき能力がないために、ぶつぶつ言ったり、けちけちしたり、おべっかを言ったり、自分の身体にあたりちらしたり、人に取り入ったり、ほらを吹いたり、そんなにも心を乱さねばならないのか。否、神々に誓って否。とうの昔に君はこういう悪い癖から足を洗ってしまうことができたはずなのだ。そしてなにか責められるとすれば、ただ鈍間で、理解力が鈍いということだけ言われるので、済んだはずなのだ。しかしこの点についても、なお、修養すべきであって、この魯鈍さを無視したり、たのしんだりしたりしてはならない。」
・ちょこっと解説
・ソクラテスは「人間としての徳は教えることができない」と明言をし、当時のソフィストたちに顰蹙を買っていたみたいだが、今回のマルクスの金言を見ると、ソクラテスの言っていることは、やっぱり正しかったことが、よくわかる。
・つまり、徳とは教える・教わるような類のものではなく、やる・やらないといった次元の問題なのだ。きっとソクラテスもそんな気持ちだったのだろう。と、魯鈍な小生の頭は理解した。
・それにしても、この章を著した時のマルクス・アウレリウスの心境が気になる。何か嫌なことでもあって、心が弱いほうに流れそうになっていたのだろうか。はるか昔の、偉大なる人ではあるけれど、同僚や部下に接する如く、肩でもたたいて、「お互い大変だな。でも頑張ろうぜ」って言いたくなる。
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