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誰にも読まれない文章を書くことの意味

「誰にも読まれない文章を書くことに意味があるのか?」
正解のない、難しい問いですが、
答えは大きく2つに分類できそうです。

(1)非・ビジネスの場合
「意味がある」と考えます。この雑記のメインテーマです。

(2)ビジネスの場合
あくまでもビジネスです。利益を上げる必要があります。
商売が成り立たないのなら、現時点では意味はない、薄いと考えます。
(この失敗が将来の成功を導いた系の話は、一旦、脇に置きます。)

ビジネスならば、例えば以下のような改善が必要です。
 ・顧客数の拡充
    →中身以前の問題。
     ファンを増やしたり、広告を出す等の広報活動。
 ・中身の充実
    →肝心の中身がないとビジネス継続が困難。
 ・表現方法の工夫
    →わかりにくい、表現が特殊(トゲトゲしい等)だと
    「通(つう)」しか読まなくなります。
 ・撤退
    →傷の浅いうちに撤退することもビジネスでは重要です。

ここからが本題です。
「誰にも読まれない文章を書くことに意味があるのか?」について
以降は(1)非・ビジネスの場合を想定して書きたいと思います。

まず、1990年代後半以降に
インターネットが民間に広く普及するまでは、
一般人が自分の文章や作品を公開する手段は限られていました。

一方で、
2025年現在ではどうでしょうか?
少なくとも4W1Hからは開放されていそうです。

・内容の自由度が高い(法律や倫理的な問題に抵触しない限り)
    →whatからの開放。何を書いてもよい。
・時間的制約がない(24時間OK)
    →whenからの開放。いつ書いてもよい。
・場所的制約もほとんどない(日本中、携帯やパソコン使用OKなら)     →whereからの開放。どこで書いてもよい。
・誰しもが投稿可能(子どもからお年寄りまでOK)
    →whoからの開放。誰が書いてもよい。
・無料(ほぼ)
・投稿数は自由(ほぼ)
    →how much、how manyからの開放。
     お金や数量を気にしなくてもよい。

一方で2025年現在でも
「why(なぜ?)」からはまだ開放されていないように見えます。
例えば以下のような事柄です。
 ・書く目的は?
 ・書く意味は?
 ・なぜ書かなくてはいけないのか?
 ・書く意味がわからなくなった。

実は「なぜ(why?)」は、
目的や意味など、その本質や根本を問うています。
そうそう簡単に答えは出ません。
ある種、暴力的な問いなのです。

そこで、私なりに回答してみます。
■問い
「誰にも読まれない文章を書くことに意味があるのか?」

■回答
間違いなくあります。

人のためではなく、「自分のため」に意味があります。
 ・書くこと自体を楽しむ。
 ・表現することを楽しむ。
 ・うまく表現できないことも同時に楽しむ。
 ・書いたものを読むことで、自己理解を深める。

「今、ここを楽しむ」、「自分に読ませるために書く」と
言い換えてもよいかもしれません。

さらには、今書いたものを
未来の自分が読んだ時、
自分自身への理解がもっと深まります。
自分の変化にも気づけます。

以上の視点には、
他者の介在(誰に読まれたか)は関係ありません。
経済合理性とも関係ありません。

少し話が飛躍しますが、
どんな優れた作家や漫画家、書道家、音楽家、あらゆる表現者でも、
すべての表現を公開しているわけではありません。

作家は、公開していない大量の文書を持っています。
漫画家は、かつて、学校の教科書やノートに絵を描いていたはずです。
書道家は、作品展に出す前、公開する前に、膨大な量の練習をします。
音楽家は、ピアノを楽しんだり、自分のためだけに作曲をします。
野球選手だって、子どもの頃、公園でキャッチボールをしています。

これは誰に見せるものでもありません。
すべては自分のための表現活動です。

少し補足します。
ゴッホや宮沢賢治の作品が世に広まったのは、
彼らの死後のことです。
当時はほとんど誰の目にも触れていません。

では彼らの作品に意味がないかというと、
そんなことはないと断言できます。
作品の認知度が低いからと言って
作品の価値が低いとは限らないというよい見本です。

蛇足になりますが、もう少しだけ補足します。
日記というものは、
そもそも人に読ませるものではありませんでした。
ブログ(Web上のログ、Web上の日記の意)として、
自分自身の日記を広く公開するようになったのは、
私が知る限り、1990年代以降のことです。
    →一部、「土佐日記」等の作品は、日記とありますが、
     これは日記というスタイルをとった、
     他者に読まれることを前提にした作品です。例外です。

つまり、
誰にも読まれない文章の代表である「日記」に
価値がないかというと、
そんなことはないと思います。

長くなりましたが、以上が私の回答です。

一方で、
「誰にも読まれない文章を書くことに意味があるのか?」
についての答えは、
「正解がない」とも考えています。
いろんな答えがありうると考えています。

皆様はどう思われますか?
またnoteでの表現活動を楽しんでいらっしゃいますか?

書くことに詰まったときは、
他の記事を読んでみたり、自分自身だけのために、
ちょっとしたものを創作してみるのも、
一興だと思います。
他人が読む、読まないは、二の次で。

まあこれでも飲んで、気楽にいきましょう(笑)。
炭酸飲料はペットボトルより缶のほうが炭酸が強く、
断然おいしいですよ。
いや~、ネット上の駄菓子屋として、
最後にこの数行をつけることにより、
いい話が一気に興ざめになる感じが、
個人的にたまりませんな(笑)。

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お疲れカツカレー
私はコーヒー星から来たコーヒー星人です。チップは私のコーヒー代に変換され、さらには、やがて、新しい記事を書く活力に変換されることでしょう。「それでもよい」という粋で酔狂な方、お待ちしております。