「大人はいつでも雨天決行だよ」
ある幸運があった。一緒にご飯を食べた相手にそのまま家に誘われたのだ。しかも結構な夜に。私は彼女と会う度にいつもきゅんとしていたから、本当に素直に嬉しかった。
黒を主体としたモード系の女の子は髪型にも凝っていて、顎にかかるかかからないか位の前下がりの、少しアシンメトリーのベリーショートで、片方の髪を耳にかけていた、襟足とサイドを刈り上げているその髪型がとても似合っていた。そして、民芸品のような、随分と古い型のヴィトンのバッグを持っていた。
LVのバッグは多くの人が持っているからこそジャッジが厳しくなる。でも彼女のそれは本当に良く似合っていた。そんな女の子に家に招かれるなんて、おしゃれな人が好きな私にとっては夢のような話だった。
お家はとてもスッキリとしていて、ミニマリスト一歩手前のこだわりのある部屋だった。壁こそコンクリートの打ちっぱなしではなかったけれど、それさえあれば絵に書いたような室内だった。しかも2人がけのテーブルはなく(1人用のとても小さな机とスツールだけだった)、ベッドしかない。
「私の部屋ソファーがないから適当にベッドに座ってて」とお酒を用意している女の子に言われた。
言い訳のある部屋だ!と思った。寝室が別にあったり椅子が2脚あると必然2人の物理的な距離ができる。でも私達が腰掛けるのは同じベッドで、夜で、私の好意も知られていて、お酒も入る。キャッキャウフフに発展するための「言い訳」がこの部屋には満ちていた。わーい。
そう思い、壁際にピタッと付けられているベッドに腰掛けなんとなく右横を見たら、ベッドの枕側の壁に異常な数のポストイットが貼り付けてあった。
えっ、なにこれ? もしかして女の子は意外な趣味として歴史好きと公言していたから、戦国時代の相関図でも貼っているのかな。それにしても数十枚は貼ってあるし、色分けもされていないからなんだか怖いよ。
おそるおそるポストイットに近づくと、そこには色々な数字が書かれていた。
6/11 ヘアカット
右サイド 6mm 前回から1mmだけ長く切ってもらう。まだ風で髪が流れやすい
左サイド 9mm こちらはベスト
襟足 7mm ここまで短いと地肌が見え過ぎる。次回は9mmにしよう
そこには数年分の彼女の髪型の変遷が詳細に書かれていた。何も変なことはない。おしゃれが好きで、髪型にも凝っている女の子が髪を切る度に自分にベストな長さを記録しているだけだ。でも、そこにはちょっと笑えない凄みがあった。
いっそ好きな映画の相関図とか、未解決事件を独自に追った過程とかが貼ってあればまだ怖くなかったかもしれない。びっくりはするけど、ドラマや小説で馴染みがあるし、冗談としてまだ女の子に話しやすい。
けれど、「数年分の髪型の詳細」が数十枚も貼り付けられている状況は、人生で一度も考えたことがなかった。 なぜかわからないけど、付箋の話には絶対に触れてはいけない気がした。彼女の美に対する執念への痕跡が、眼の前に物理的に見えるからなのかもしれない。
ーー彼女が私の左側に座りお酒を渡してくれる。いい雰囲気でお酒を飲む。でも私は右側にある数十のポストイットにすごく見張られている気がした。案の定女の子は付箋の話題に一切触れない。あのさ、その位置からだったら絶対見えてるはずだよね。
部屋は間接照明に包まれていて、ベッド下の明かりがポストイットを照らす。女の子はすごく魅力的だし、とても好きだ。距離も近すぎるくらいに近い。このままいけば、キャッキャウフフ路線は間違いない。それなのに、壁一面のポストイットが目に入る度に、何とも言えない不気味さが胸を占める。何もおかしくないはずなのに、なぜか怖い。
もちろん、私が彼女を好きなのは変わらないし、好意を伝えるタイミングも悪くない。でも、その美への凄まじい執着が視覚的に突きつけられ、どうにも気後れしてしまう。まるで数十の目に監視されているような感覚だ。
結局、私はそれはそれは長い時間もじもじしてしまい、今日はここまでだと決めた。今度ポストイットのない場所で気持ちを伝えようと思い、部屋をあとにした。ーーでも、もちろん「次」なんてなかった。私達の正解はあの日だったのだ。彼女の部屋のポストイットたちは私が帰った瞬間に色褪せてしまったのだろう。
モテる男への道は、今日も遠い。みなに幸あれ。
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