
人を■したことがあるかという問いに即答できない。
あなたは人を■したことがありますか?
もし誰かにそう質問されたら、私は「ない」と即答できない。もちろん人を■した経験はないし、日常生活でそんな質問をされることもないのだけれど、なんというか、「そんなことあるわけないでしょう」と誰もが答えられる類の質問にうまく答えられないのだ。
私は大体いつも躊躇し、返答が2〜3テンポ遅れてしまう。
確かに私は直接的に人を■したことはない。けれど、私の些細な一言や、ささやかな悪意、無自覚な無関心のせいで、一匙ずつ毒を盛るような形で、関節的に誰かを■したことはあると確信している。自分が誰かに一匙毒を盛ったのだと自覚している。
自覚的なエピソードはなくとも、生きるとはそういう側面もあるでしょうと思っている。
というような話を女の子にすると、ごくたまにモテることがある。
「この人なんだかとても変なことを言っているけれど、確かに言われてみたら私にも思い当たるふしはあるかも。この人はほかの人たちとは違う視点を持ってる」と都合よく解釈してもらえることがある。
だけど、当たり前だが「■したことあるわけないじゃん」と即答できる男のほうが、圧倒的に健やかで健全で多数派だ。
私は自分自身のややこしい性格もまぁある程度肯定しているが、たまに無性に即答できる健やかな人が羨ましくなることがある。だってその人のほうがもっとモテるから。
こういう、物事を反応・反射的に判断せず自分の頭で考える重要性みたいな話をすると(今回の場合は人を■したことがあるかに即答するかどうか)、即答できない少数派のほうがより考えていて偉いっぽくみえる場合もあるけど、もちろんそれは違う。思考のベクトルが異なるだけだし、今回はたまたま私が少数派だっただけで、別のケースでは多数派になることもあるだろう。
それに人を■したことがないなら即答できたほういい。そしてたぶんずっとモテる。
飲食店でカニ料理を食べるときに、このカニの他の足は200キロくらい離れた別の県でほかの誰かに食べられているのかもな、とカニの他の足に思いを馳せる男よりも、「カニ味噌おいしい」と笑って食べる男のほうが健全だし一緒にいて楽しい。
ーーなんやかんやで落ち込んだときに、たまに私は自分の過去のエッセイを読む。それぞれの記事は格好つけたことを書いてはいるが、要約するといつも「とにかくちやほやされたい」という内容だ。
そう思えるのはまぁまぁ元気な証拠だ。だからこれからもモテたい記事を書くと思う。
けれど、と、ふと思う。私の「モテたい」が「モテている」に変わるのはいったいいつなのだろう。……モテる男への道はまだ遠い。