後悔できたほうが良かったんだ。
自分の長所は何かと聞かれると、誰にでも受け入れやすい最大公約数の長所とは別の、人には言わないけど本当に感じている長所がある。
私の場合のそれは「人生で一度も後悔したことがない」で、そんな自分をふふふんと誇っていた。3日前まで。
3日前にとある恋仲になりたい女の人とお茶をしたとき、彼女の後悔している話の流れで「あおくんが一番後悔していることって何?」と聞かれた。私は、この人になら言っても良いと思い、それがないんだよね、と伝え、決断が正解だったわけではないけれどその時の自分なりにかなり一所懸命に考えた"その時々の最善”だったから、今思えば別の選択肢もあったかなとは思うけど、その時の決断に後悔はないんだよね。そこまで求めるのは当時の自分に酷だしねと言った。
格好つけたわけではなくそれは紛れもなく本心で、しかもその人はちょっと「ぽうっ」としてくれたのに、話している最中から何故か強烈な違和感があった。それは無視してはならない何かな気がした。
次のデートでたぶん決定的に嬉しいことが起きる余韻を残したまま別れ、家に帰り、頭痛薬を飲み、肯定的に言っても決して裕福ではない部屋を見たときに、あぁ、とわかった。
「一度も後悔のない」人生と、「現状の日々の厳しさ」が釣り合っていないのだ。自分の人生の現状を、誰と比べなくてもいいし自分にすら誇らなくてもいい、それは言い聞かせなくともお腹の部分でわかっている。
けれど現実的に、私は収入がとても少なく、大病を患った後遺症で人並みに活動できることはほとんど不可能で、体調の起伏が激しい。初めて、一度も後悔したことがないというのはいい面だけではないのかもしれないと思った。
「後悔していない」気持ちは少し運命論と似ているなと思った。全てが決まっている運命論と、過去に後悔はない=曇りなくすべてを肯定しているという気持ちは、他に余地がないという点で一致しているのだ。
過去に対して「後悔している」気持ちは、自分だったらもっと他に何かができたかもしれないという可能性のニュアンスが含まれている言葉で、余地がある。「あのときああできたかもしれない」という、過去の自分の決定の範囲に対する希望が残っている。だから決定論ではなく自由意志に近い気がした。
ーーもし私の過去に本当に後悔がないのなら、体調を崩して休職したことも逃げるような転職をしたことも、年収1000万円ない人とは結婚できないと言われ別れたことも、努力ではなく能力的にどうしても出来ないことに直面して悔しくて泣いたことも、その全ての決定を肯定しないといけない。それってちょっと不健全だし、自分に厳しすぎると思った。
たったそれだけの話だった。自分自身への優しい眼差しや肯定の仕方は1種類ではなく正解もなく、その時々の状況によって移りゆくものだという、当たり前のことにようやっと気がついた。
昔は後悔しない自分でよかった。都度都度に一所懸命考え、「後悔しない」が出来ていた自分はやはりまぁまぁ素敵だった。でも最近はそうではない考え方も見ていたほうが健全だったのかもしれない。
ーー後悔したがよかったんだ。
私は、後悔したほうが良かった。あの違和感が教えてくれてよかった。今から「後悔している」「後悔はない」のグラデーションを行き来する毎日を始められる。それはとても楽しそうだ。
今あるものを無理やり掻き集めて「価値あるボックス」に絢爛豪華に陳列して、これはとても素敵なものですと演出する必要などなく、「あれがほしいなぁ」「これもほしいなぁ」と健やかに思いながら、すくすくと掴み取りに行こうと思った。外は雨で、雨音が心地よかった。雨とともに眠り、起きたらその人にラインしようと思った。雨は綺麗だった。