見出し画像

夜が来ない

もう3日も夜が来ていなかった。

比喩ではなく、この3日、起きてから眠るまでずっと日光が射していたのだ。種明かしは簡単で、日差しの強い夕方に寝て朝日で起きる日が3日続いたのだった。

そのころは過去に例を見ないくらいのストレスに見舞われていて、全く眠れない日が続いていた。それで、お守りのように持っていた睡眠導入剤を約3年ぶりに使ったのだ。夏至の事だった。

寝ても覚めても外が明るい。ただそれだけのことなのに、なんだか世界が変わったような錯覚に陥った。仕事でもプライベートでも、関わる人たちに陰がないというか、会話がすべてポジティブなのだ。

厳しいことで有名な上司も、この3日は「誰にでも失敗はあるし、次はきっとうまくいく」と言うし、いつも悩み相談の電話をかけてくる友人も「今日は世界がきらめいて、本当に満たされた気持ちだった」と言う。

出会う人出会う人みんなが微笑を絶やさず、目が合うと、ホワイトニングのコマーシャルのような、テンプレートの笑顔を見せた。みなカラカラと笑い、なんの含みも余地もなかった。

あれ? ちょっとおかしすぎる。2日目にはそうわかっていたのだけれど、あと1日だけ試そうと思い3日も「日中だけの世界」を過ごしたのだった。

奇妙な世界に迷い込んだか、奇妙な世界側がこちらに侵食してきたかのどちらかなのは明白だった。

けれど不思議だ。普通そういう奇妙な状況に陥るトリガーは、たとえばトンネルをくぐるとか、不思議なドアを開けてしまうとか、そういう明確なきっかけがあるものだ。

それが(睡眠導入剤を飲んだとはいえ)ただ睡眠時間が長く、たまたま起きている時間がずっと日中というだけで、いつの間にかこうなってしまった。

最後の日、私はとある女の子とお茶をする予定があった。少し離れたカフェに行くために一人でバスを待っていたら、品の良いマダムが同じバス停にやってきた。もちろん初めて会う、赤の他人だ。

マダムは歯のコマーシャルのような完璧な笑顔で私を見て、つま先から頭の先までをゆっくり眺め「きれいね、素敵なお召し物ね」と言った。この世界への興味よりも、恐怖が上回った。マダムはポジティブなことを言ってくれただけなのだが、明るさだけの世界はちょっと怖かった。

そうして私は家に戻り、お茶の予定だった女の子に断りの連絡を入れ、夕方にベランダに出た。ベランダから外を眺め、夕日になるのを待ち、それが森の奥に消えるのを待ち、消えてからも空が完全に暗くなるのを待った。完璧な夜になるまで待った。

そして部屋に戻り、ご飯を食べてお風呂に入って眠った。

翌朝、仕事に行くと世界は正常に戻っていた。上司は部下に怒鳴り、スマホには友人から「相談に乗ってほしい」というラインが来ていた。

ーーそして夜。お茶の予定をキャンセルした女の子に電話をし、断ってしまうきっかけとなったこの3日の話をした。

ややあって、女の子がかなり言いにくそうにこう言った。

「あのさ、その話、絶対に誰にも言わないほうがいいよ、怖すぎるから」

だよね。「日中だけの世界」に迷い込んだなんて、普通に気持ち悪いし人格疑われるから怖いよね。と思った。作り話にしても気持ち悪いよね、と思った。

女の子が「絶対に誰にも言わないほうがいいよ」と続ける。「私も昔、夜だけの世界に数日迷い込んで相当怖い思いをしたんだけど、その話は絶対に誰にもしない。迷い込むトリガーは教えあっちゃいけないんだよ」

えっ、迷い込むトリガーは教えあっちゃいけない? なんだか何がなんだかわからなくなってきた。私はまだ奇妙な世界に入り込んだままなのだろうか。世界が違った歪みかたをした。

*********************

※夏の終わりに、とある女性と一緒に、横山起朗さん(ピアノ)がnuunさんとまわっているライブに行ってきました。nuunさんだけのローファイヒップホップのような曲を聴いているとき、なぜか急に「夜が来ない」というフレーズが繰り返し浮かび、帰りしなにその人に「『夜が来ない』でエッセイ書いてみる」と言い、その日のうちに書き上げました。

その人はこのエッセイを読んで「えっ、3日もそんなに寝てたの、大丈夫?」とびっくりしてたけど、もちろんこれはある程度フィクションです。念のため。

いいなと思ったら応援しよう!