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最近の学び。自分の物差しを人に押し付けないようにしようと思ったこと。

「その人の事情があるだろうから」

私の大学卒業間近に亡くなったおばあちゃん、母の母の口ぐせだった。

あるとき母は、母の兄やそのお嫁さんについて小言を言っていた。

「孫の顔も見せに来ない」
「雪かき、雑草取り、何にもしない」

そんなとき、おばあちゃんはただ、笑って「事情があるだろうから」と言っていた。

この言葉はその後、私の胸に深く刻まれることになった。でも実践するのは難しい。

おばあちゃんのような人になりたい。

平均寿命に比べたら若くして亡くなってしまった。それも急に。

脳梗塞で自由が効かなくなったおじいちゃんを介護し、畑を守っていた。

そして、ほんとに急に、旅立ってしまった。

母は、おばあちゃんとの別れについてこう話していた。

「疲れたね、休んでね」と母が声をかけると
「うん」と頷いて目を閉じて、それが最後の会話だったそうだ。

最後の最後の最後まで、人のために生きた。

人それぞれ、事情がある。

時にそれを忘れてしまうように思う。

自分がこうだから、相手もこうだろう。
こうすべきだ、なぜそうしないのだろう。
そんなふうに、自分の物差しを他人に使ってしまう。

昨日は息子の入学式だった。
けれど、今、息子は入院している。

幸い回復しており、明日には退院予定だ。
体質でどうしようもなく、注意を払って、出来うる対処をしたと思ったけど入院に至ってしまった。

過去に下した細かな決定の一つ一つを辿っては悔やんだり自分を責めたり。不甲斐ない。

過去の経験から、普通の子では特段気にすることがないシグナルも息子にとっては深刻な事態になりうると分かっていた。

だから、事情がわかる医療関係者に話せば、すぐに話が通じる。けれど、すぐにそういう場所にアクセスできないときには遠回りをしてしまう。もどかしかった。

前に入院した病院の救急に電話をしたら「気にしすぎな行きすぎたお母さん」のようにあしらわれ、抱っこするには大きい息子を抱きかかえて一般診療に回った。忙しい医療現場、仕方ない。私の伝え方も良くなかったのだろう。

受付で、過去に入院したときと同じ症状だと思うこと、朝電話で一般できてほしいと言われたことを話したら再診扱いにしてくれた。ところが、病棟に着いたら「聞いてなかった」と、冷やかに言われてしまった。これも、忙しい医療現場、仕方ないのかなと思う。

受診したらやはり簡易検査から即入院。

早く予防してあげられなかったこと、弱い体質にしてしまったこと、それは育て方が悪いから。入学前の大事な時期に親の管理が悪い。そんなふうに身近な人に言われたりもした。
結果は結果。飲み込むしかない。

病院にはいろんな子どもがいた。

小さな赤ちゃんも、少しお兄さんお姉さんの子も。医療機器をつけている子もいる。

普通の子ができることをしたくてもできない子がいる。

薬を飲んで寝ていれば治る子もいるし、それでは一向に良くはならない子もいる。

この子の場合はこうだったからふつうは、こうだろう、そんな考え方は危ないと思わされる。
ふとした発言が誰かを傷つけるかもしれない。
人にはそれぞれの事情があり、ペースがある。

いつでも誰もが個々の事情に寄り添えるわけではないけれど。

何か違うな、と思うときは想像力を働かせることができるようになりたい。

自分の物差しを人に当てはめてものを考えるかわりに、相手の物差しのことも考えられるようになりたい。

今回学んで、受診に踏み切るまでの判断の基準や、受け入れてもらうまでの方法をお医者さんと相談しておくことにした。

それが息子を守る手段だから。
息子を守る物差しは親がしっかり持っておかないといけないと思っている。
息子のことを深く知らない他人に何かを言われても物差しが揺らぐことはない。

人それぞれの、息子の、事情があるのだ。

おばあちゃんは働き者だった。
家のこと、子どものこと、孫のこと。
よく考えて学んで。
畑も、おじいちゃんが倒れても守り続けて、最後まで気にしていた。

おばあちゃんに聞いたことがある。

大変じゃない?と。

「やらなきゃしょうがないから」

義務だからやっている、のではなく、やらずにはいられないのだ。

自分の物差しを人に押し付けず、ただ、自分にできることに全力を尽くす。

そんなおばあちゃんのような人になりたい。

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