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続編。思い通りに勉強しない子どもに向き合うのが辛くなる前に思い出す、育児は育自。
昨日の記事の続き。
勉強があまり得意になりそうにない息子へのモヤモヤを抱えて絡まっている私。
ところで、話は変わるけど、仕事で、管理職に囲まれるようになると、メンバーの方々への感想が飛び交う場面に居合わせるようになる。
期待されている人、期待は取り立ててされていないけど長く働き続けて欲しい人、特になんとも思われていなさそうな人、遅かれ早かれ辛い立場に置かれるのだろうなと思われる人…いろいろいる。
最後の、「遅かれ早かれ辛い立場に置かれるのだろうなと思われる人」は結構辛い感じがする。(ご本人の心境を思うと)
ただ、仕事がそんなにできないだけなら「特になんとも思われていなさそうな人」だって同じような能力なことがある。むしろ、こっちの人の方が仕事ができない可能性すらある。
けれど、「遅かれ早かれ辛い立場に置かれるのだろうなと思われる人」は、仕事ができない場合もそうじゃない場合も周囲からすこし白けた目で見られているような感じがするのは理由があると思う。
それは、本人が職場や仕事や周りと人たちへのネガティブな気持ちを抱いていることが周りにバレちゃっていることだと思う。
本人の意識が変われば「なんとも思われていない人」や「ずっといて欲しい人」にかわる可能性だってあるのに…と思う。
けれども、実際はなかなか難しいというか、手遅れだったり、本人の中にそういう意識に陥る装置があって転職を重ねても解決に至らない気がしている。解決されるとしたら、きっと、自分と自分の理想の距離を正しく測れるときがくるときだ。
さて、話は勉強への態度が私から見ると「なんだかなあ」の息子に戻る。
彼の中で勉強の優先順位が低いわけではないのだと思うのだが、「自分の立ち位置」と「理想の自分」の紐付けができていないからぼけっとしたまま過ごしているように思う。
理想の自分はある。
けど、自分の立ち位置とそのギャップに気づいていなく、親がどんなに「これをするといいよ」と言っても自分事になっていないのだ。
塾に行くと先生がうまいこと転がしてくれたりはするが、「じゃあ、家でも研鑽を積んで、勉強の習慣をつけよう!」とならない。
(そこも含めて、モチベーションを高めてくれる先生を探すしかないのかも、と夫は話している)。
たぶん、まだまだ幼いのだろう。
自意識が育つまで待つうちに、きっと、もう自覚して自走している子達との差は開くし、そうした子たちの競争環境の中では実力が追いつけないだろう。
それで、自意識の開花へどうもっていこう?とか、自意識が弱くても勉強だけ体にさせる方法はないものかと、悩む羽目になってる。
さて、じゃあ、大手塾で凌ぎを削るエリートたちが我が子なら安泰なら良いかと言うとそうだよ!と即答するほどには単純ではない気がする。
「勉強をなぜするのか、することで自分がどうなりたいのか?」
そうした、対自分の動機を持たないと、他人の作るペースに合わせて無理したときにいずれどこかで綻びが出そうに思うからだ。自分を見失ってしまう。
かなり話は飛躍するかもしれないけど…
仕事でいずれ辛い立場に置かれそうに見える人たちのように、自分を変えたら見える世界が変わるよってことに気づけない、ということにならないように、自分もしたいし子どもたちにもそうあってほしい。
不都合なことに対してそれを周りのせいにするのではなく、自分にはいつでも未来を良い方へ変える力があってほしいし、私もそうでありたい。
「勉強をなぜするのか?することで自分がどうなりたいのか?」
自分の子どもに対して「なぜ宿題をやらないの」と詰めてばかりでは私はきっと、子どもが変わらないと私の世界が変わらない人になってしまう。そして子どもを変えようとし続けてしまうのだろう。
(職場が変わらないから自分が不幸かのように振る舞う人たちのように)
…ちょっとそれはいやだなあ、と思う。
私は、少なくとも私の世界は変える力がある。
子どもと向き合うのが楽しくなくなる未来がもやっと立ち現れている今、変わることを迫られているのは私の方なんだろうな。