子育てのままならなさと、今の私の子育て観
誰とでも良い関係を築くのは大事なこと。ただ、人には相性というものがある。
他人なら距離を取ればよいけど、家族だとそうはいかない。
家族だから自然と一緒に暮らすものの、気が合わない人同士の組み合わせだってあるだろう。
夫は、私とは気が合わないと言う。
そんな時大抵夫はプンプンしているが私は夫婦に多様性があることは子どもに取って良いからそれでよいと思う。
私は子ども達2人と気が合っているように思う。今の所。
7歳と2歳で自我が確立していないからかもしれない。彼らが自我を爆発させ完全一個人になったらそれこそどうなるかわからない。
夫との間では気が合わなくても(趣味や興味が一致しなくても)別に良いのと同じように、子ども達も私と違っていい。違いに隠れている面白さを発見するのが楽しそうだ。違うほど反抗期がキツそうだが。
こうしてみると、子育てって刹那な活動だと思う。
妊娠に産後の世話、おむつ替え、ミルク、離乳食、トイレトレーニング、本の読み聞かせ、公園遊び、すぐ汚れる床の掃除、すぐ散らかる部屋の片付け、季節の行事やアルバム作り、宿題や持ち物チェック、病気の看病や通院…
日々膨大な労力を注いできているがそれらは全て「しなくてよくなること」が目標だ。つまり、やり抜いた暁には要らないスキルになっている。そんなことの繰り返し。
子どもに注ぐ全ての労力はそれが要らなくなることを目指しており、私は立ち去られる瞬間に向かって子ども達を愛している。
子育てをしているすべての瞬間が宝物だし、子ども達と見たもの聞いたものは私の人生を形作っている。(とんでもなく辛く惨めな気持ちも含めて)
それらはまるで「今日の夕日は美しいなぁ!!」と目を見張る時に心にたまる貯金のようだと思う。
お金のように何かを買うこともできなければ
知識のように役立つこともなく、仕事のスキルのようにステップアップに資さない。
譲渡や交換が不可能ということだ。
心にたまる貯金ってなんなのだろう?
きっと、それは冥土の土産だろう。
子どもは子どもの世界を生きていく。
一方私は、誰もがそうなようにひとりで死んでいく。
旅立ちの準備として子育てはなかなか生産的な活動だ。現実界では刹那的なのに。
仕事や勉強や投資などは現実界では生産的だが、それ自体は冥土の土産にはできないから、なるべく心を通わせて楽しくやっていきたいと思う。
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