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今年のふり返り。「なんのためにこれをやるの?」子どもと考える、自分の力で未来を切り拓くとは?
今年小学校に入った息子の先生との面談で最も気まずかったのが…
「◯◯くんに、なんのためにこれをやるの?って聞かれるんですよ」
と先生に言われた瞬間だ。
おそらく、ちょっとやりたくないことがあると言うのだろう。先生に聞いたら得意な算数の時に言うそうだ。苦手なことはダイレクトにやりたくない、という態度に出る。
これは…
今年最後に落ちてきた爆弾。
なんとかしないと。
✏️
2020年新型コロナ到来で世の中は大きく変わったと思うけど、何よりインパクトがあったと思うのは「常識は変わる」ということ。
マスクをつけないとだめ
大人数で集まったらだめ
通勤して出社したらだめ
ワクチンを打たないとだめ
そんなときがあったことを鮮明に覚えているだろうか?
今では多くの人がマスクを外して出社もしているし、大人数の催しも行われているし、ワクチンは打たないことにした人もいるだろう。
こうじゃなきゃだめ、と誰かが決めて「みんなやってるからやらなきゃだめ」だったことは、やらなくてもいいんじゃない?と言えるような場面も出てきていると思う。
Uber eatsでいいんじゃない?
このCMなんだか耳に残るのだが「〇〇でいいんじゃない?」と言ってもらいたいことが私たちにはよくあるよね、と思う。
忙しいのに眉間に皺を寄せてごはんを手作りしなくてもいいんじゃない?
楽しくもない飲み会に行かなくても、いいんじゃない?
今夜無理やり終わらせなくてもいいんじゃない?
学校なら、そこまで細かい決まりを守らなくてもいいんじゃない?
なんてのもありそうだ。
✏️
子どもたちは学校になんのために行くのだろう?
親は、学校へなんのために子どもを行かせるのだろう?
もう多くの人が知っている。
学校を休まず勉学に励めば幸せな人生が訪れるわけではないことを。
友達をたくさん作り人気者になれば将来が約束されるわけではないことを。
学校に行くとか勉強をするとか親の言うことを聞くとか「やっておいたほうがよい」ことを、喜んでやる人も、前向きにやる人もいる。そこから外れるだけの勇気や度胸や理由がないからやる人もいる。やりたくないけど自分への試練としてやる人もいる。どっちでもいいけどまあとりあえずやるって人もいる。
そりゃ、嬉々としてできたらいいけど、そんなもんだ。
幼い子どもならなおさら。
そして、もっともっと切り込んで仕舞えば、何をしたらよい?何をしなくちゃいけない?何をしなかったら大変なことになっちゃう?
その答えを、誰も、教えてくれないのだ。
✏️
ここからは、私の好みの話で、親として子に思うのは、将来自立するために、目の前のことは友達付き合いでも宿題でもなんでも、とりあえずはやってみてほしいな、ということ。
将来のために何が良いか親も約束できない世の中だからこそ、ひとまずやってみたけど、ここが気に入らないから、どうするこうする、と考え進んでほしいと思う。
それで、先生に「なんのためにこれをやるの?」って聞いてしまう息子、やりたくないことをさぼろうとさる息子をどうしよう。
私は考えた。
先生に口答えしないで
人生に無駄なものなどない
悪目立ちしないで
それを聞いてどうするの?
みんなと一緒にやるのも大事だよ
いやいやどれもなんか違う。
なんのためにやるのかを「考える」こと自体は悪くないと思う。
(そういう、何かを考える力を奪うような子どもとの接し方はしたくないなと思う)
けれど、その答えがないからと「やることを止めてしまう」のはやめてもらいたいのだ。思考停止の先に進まないと。
息子にはこう言ってみた。
「学校でもおうちでも、どうしてやるのかわからないことでも、とにかくやってみる練習をしよう」と。
完璧にできて飽きたらまた、なぜそれでもやるのか考えればよかろう。もっと早く、もっとたくさん、もっと上手になるには?そう、考えてほしい。
やることが自分には合わなければ、やり方を変えたり、新たな目標を考えたり、何かしら想像的に頭を使えばよいじゃないか。
そう、創造的に!
✏️
不本意なこと、理不尽なこと、一見無駄なこと。
仕事でもよくある。
職場で、長年に渡り、永遠に終わらない誰かの不満を長らく聞き続けて思っていたことがある。そうした、不幸のループや自己憐憫に陥る人には特徴がある。
「自分にとってのありたい姿を考えることを避けている、またはありたい姿になる手段を他人に預けちゃっている」
かなり再現性の高い現象だ。
もちろん、その人に問題があるのでなく、そう言う状況に陥らざるを得なかったというだけのこと。
息子には、なるべく、「何かのせいで自分の不満が解消されない、ハッピーになれない」という世界の住人になるのでなく、いつのときも「自分の(完璧ではなくても納得いくレベルの)ハッピーは、自分の力で手に入れることができる」という思考回路を開通してもらいたい。
大袈裟だけど、自分の未来を自分で切り拓くとはそういうことじゃないだろうか?
だから目の前に課題があるとき、〇〇だからやだ〜と考えるのでなく、とにかく、やってみてじゃあどうしたら自分がハッピーになるかを考えてみてほしい、と思う。
やってみる練習をしよう。
そう言って学校へ送り出す毎日。
幸い、学校は「やってみる練習」の場所だと息子は思い始めたようだ。
うまくいかなくっても、いいんじゃない?
「やってみる練習」をがんばる息子を今は励ましていこうと思う。
そこから何を思った?を創造的に、親子で話し合って行けたらいいなあと考えている。
🪽
きみの背中には、大空を羽ばたくための翼が育ってるんだよ、と言う話をした回を備忘録に貼っておく。