
育てやすい子、育てにくい子、子どもの発達について思うことをつらつらと。
全然まとまってない話だけど、つらつらと思うままに。
上の子が小学生になってから、発達検査を受けたり療育に通ったり特別支援教室に通級したりお薬を飲み始めたり。それはまぁ、波のようにいろいろ知らないことが押し寄せてきた。
大波にさらわれた!と親子共々しんどいときもあったが、慣れてしまえば池にぷかぷか漂うアヒルの親子のように過ごしている。
学校で、地域で、専門家の皆さんの力を借りるため医師に「意見書」を書いてもらう必要があり、そこにはASDと記載があった。最初の頃はかなり心が揺さぶられた。
ずっと彼を見てきたにも関わらず「見えていなかった部分」が見えるようになってきてサポートしやすくなった反面、視界が広くなって逆に心配しちゃえる範囲も広がった。
けど、まぁ、息子のサポート体制という観点では間違いなく家庭内外で手厚くなりそれはよかったと思うところ。
(障害はセンシティブなことなので、発達検査を受けるか、意見書をもらうか、診断書をもらうか、薬を飲むか、行政のサービスを受けるか、など、すべての選択肢において絶対的な正解はなく、その家庭の意向が尊重されるものと思っています)
1人目の子だったということもあり、どんな子であれ子育ては大変!と思って過ごしてきたけど、2人目が産まれて成長してくると、「あれ?なんだか、この子、ラクだなぁ」と思う場面に出くわす。
単に、1人目より2人目の方が育児に慣れてるってだけでなくて、コミュニケーションが成立しやすいとか、反応が早いとか、自分で動いてくれるとか、気持ちの切り替えが早いとか、周囲から浮かないとか、場所や人になじみやすいとか、そういう「個体としての育てやすさ」があることに気づくのだった。
✏️同じ親が育てても、子どもは全然違う
✏️定型的な発達ってこういうことだったのか?と2人目を見て思うときがある話
つまり、あくまで、今の時点の話だけど、発達の課題のある上の子の育児には「かなり特殊な技が要るな!」と思うのである。そう、技が要ると思う。
特性に合わせた対処があるとしてその特性はその子だけのものだし、時によって度合いが違って現れたりするため。また当人にしか通じない一般的には謎の声かけや注意喚起が必要など。
じゃあ、「育てにくい子」なのかと言うと、それもまたちょっと違う気がしている。生活リズムは整っていて食事も安定して外でトラブルもあまりなく(極力、問題が出ないよう工夫はしているが)。
確かに、全然手のかからない子の話を聞くと「え!羨ましい!」と思い、うちの子はなんて育てにくいの?!となりそうだ。
しかし、年齢を重ねていくといろんなことができてしまう子はそれゆえの苦悩があるかもしれないし、複雑な問題を抱えて親には打ち明けてくれないかもしれないし、いい子が親に心配かけまいと隠すあれこれなどなど、わからないものである。
実際、私は、ど田舎の小中学校で優等生で友達とは揉めず、先生に怒られたこともなく手もお金もかからない子だったはずだけど家では頻繁に怒られて、怒鳴られて、引っ叩かれていた。
なぜだろう?残念ながら、理由を思い出せない。きっと、親から見た時には厄介な子だったのかも。口が達者で、両親からの小言にいちいち口ごたえをし怒りを買っていたと予想している。
上の子は、心配なことは多々あれど、嘘をついたり人を貶めたり傷つたり攻撃するようなことは言わないので、やりやすいと思ってしまう。まだ言葉が足りなかったり、幼いのかもしれない。
それか、私自身の成長が足りなくて、我が子が可愛いだけの時代から脱却できていないのかも???
下の子は上の子の比較だと育てやすいってことになるのだろうが、次男坊らしく、要求が上手くて、対抗心も強いから時にめんどい。まぁ、それもまだまだかわいいが。この先のことはわからない。
そんなわけで、発達うんぬんの話題の上らない家庭ではお目見えしない「技」が必要なことが上の子の育てにくさっぽさを醸しているのだが、それは「育てにくさ」とは別物なんだろうな、と思っている。
話は変わり、確かに、育てにくさに直結しそうな発達障害の症状はある(寝られない、パニック、癇癪、多動など)。子どものわがままやイヤイヤはありふれているから専門家を頼るのか否か、悩ましいときもあるかもしれない。
一つ思うのは、せっかく発達障害の認知が進んだ今の時代で育児をしているので詳しい人には気軽に頼れたらいいよねということ。
あのうちの子はうちより酷いのに相談してないとかモヤっとするなんてことなく親のやりづらさの感覚で、私の子育てが良くないんだと思い詰めることもなく、子どものことをみんなで知って支えていこうって世界にいれたら、と思う。